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【※ネタバレ全開です】

『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』めっちゃ面白かった!

『エイジ・オブ・ウルトロン』と『バットマンVSスーパーマン』で顕著だった、「要素を詰め込みすぎてバランスがメチャクチャ」というアメコミ超大作映画の傾向は本作でも全開。特に前半に関しては言いたいことが山ほどあるが、長くなりすぎるので本稿では触れない。
MCU全体戦略のためにスタジオ側が要求した膨大なマーチャン要素を映画に入れ切った監督の心中をお察しします、とだけ言っておきたい。

さて、この映画は「キャプテン・アメリカ VS アイアンマン」という直球の対決映画と思わせておいて、実はもうひとつ重要な対立構造がストーリー展開とともに明らかにされ、それこそが作品のテーマになっているという点が一番スゴイところだと思う。自分用の整理も含め、そのあたりをちょっとまとめたい。


映画冒頭から、アベンジャーズの活動を国連の監視下に置く「ソコヴィア協定」の採用を巡って意見が対立するキャップとトニー。

キャップとトニーの対立は、『エイジ・オブ・ウルトロン』で浮き彫りになったように、「人間の強さを信じるヒーロー」と「人間の弱さを見つめたヒーロー」というキャラのオリジンに関わる根本的な対立である。
キャップは、「弱かった自分に負けず、信念を曲げずに生まれたヒーロー」である。そのため、彼はすべての人々は自分と同じように自らの手で未来を選ぶことができると信じ、個人の意思で未来を切り開くことを重要視している。一方、アイアンマンは「過ちを犯した自分の罪滅ぼしのために生まれたヒーロー」である。幾度も道を誤ったトニーは、人間は愚かで過ちを犯してしまうものであり、自分たちが暴走しないよう、適切な監視の目が必要だと考えている。
ヒーローを公的組織が管理するという協定に対し、もともとアメリカ軍に所属していたキャップが反対し、民間企業の社長であるトニーが賛成するという、一見すると逆に見える両者の立場も、このオリジンにこそ理由がある。

そもそもキャプテン・アメリカというキャラクターは、古き良きアメリカンウェイの象徴であり体現者だ。原作コミックスで描かれたように、彼が忠誠を誓うのは政府ではなく、アメリカがもつ“自由を尊ぶ精神”である。そしてアメリカは西部開拓時代から、「自分達の身は自分達で守るべし」の信念の国だ。アメリカ独立宣言には「もし政府が間違ったことをするようなら、国民は立ち上がり政府を倒す権利がある」という一節すらある。
・・・もし政府が間違っていると思ったら立ち向かう。キャップが『ウィンター・ソルジャー』と本作で取った行動を思い出そう。彼の行動は、古き良きアメリカンウェイから1ミリもブレていないのだ。

(アメリカ国民に銃の所持権があるのも、このへんの建国当時の理念が大きな理由の一つだ。四六時中、銃犯罪の脅威が叫ばれつつも、一番簡単な「国民は銃を持っちゃダメ法案」がアメリカで実現しないのは、「自分たちを守るための正当な力の所持」という考え方がアメリカ人のアイデンティティとして非常に重要だからだ。この考え方は、本作をさらに深く読み解く上で大きな鍵となると思うので、誰かもっと深堀りしてくれ)
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ということでキャップとトニーはアベンジャーズの未来を決めるにあたり、否応なしに対立する。この映画はその対決の結果を描く・・・と観客の誰もが思う。ところが違うのである。予告編からも敢えて完全に伏せられていた本当のテーマが、映画も終盤に近くなってから浮かび上がってくるのだ。

ソコヴィア協定を巡る両者の対立は、割と早々にバッキーの処遇を巡る対立にシフトする。そして実はその対立を裏で煽っていた者がいた。その者こそが本作のヴィラン、ヘルムート・ジモ大佐である。・・・実は黒幕がいた!という所までは、まあ観客の予想の範囲内。
ところが、ジモ大佐がアベンジャーズ内の対立を煽った理由は「ソコヴィアで失った家族の復讐」だった。このことが明らかになった瞬間、この作品が「アベンジャーズ VS リベンジャー」の映画であったことが判明する。

AvengeとRevengeは、どちらも機械的に和訳すれば「復讐する」という意味の語だ。
が、Avengeは、不正を正すためや他者のために行う正当性のある行為という意味をもつ一方、Revengeは、私的な恨みを自らの手で晴らすという意味になる。
『アベンジャーズ』1作目で、コールソンが死ななくてはならなかった理由もここにある。コールソンの仇を討つ(Avenge)ために、バラバラだったヒーローたちは「アベンジャーズ」というチームになる。そしてチタウリ軍とロキをぶちのめし、Avengeを果たしたのだ。宇宙から地球に攻め込んできた残虐宇宙人を返り討ちにしただけだから、こんなにシンプルで誰からも異論の出ないAvengeは無いだろう。
しかし『エイジ・オブ・ウルトロン』ではそうはいかない。そもそもウルトロンを作ったのはアベンジャーズだ。そしてウルトロン暴走の巻き添えで、国が一つ消滅する。アベンジャーズは苦戦の末にウルトロンを破壊するが、これではもはやAvengeもクソもない、地球規模で迷惑をかけた大失態である。

ジモ大佐はウルトロン暴走の巻き添えで家族をすべて失った。そしてその復讐のために、アベンジャーズメンバーの同士討ちを計画する。何のスーパーパワーも持たない彼にとって、それがアベンジャーズにRevengeを果たす唯一の手段だったのだ。
たしかにジモ大佐の仇討ちには、アベンジャーズの行為と決定的に違う部分がある。ウィーンのソコヴィア協定署名式を爆破したように、無関係の人々を意図的に巻き込んでいる点だ。
しかし、ジモ大佐のようなヴィランの行為によって家族を殺されようが、アベンジャーズの失態が原因となった厄災で家族を殺されようが、残された人々にとっては同じことなのではないか?そして、家族全員を失ったジモ大佐から見れば、この復讐も正当な理由のあるAvengeなのではないか?この2つの問いを観客の心に呼び起こすために、映画冒頭、ソコヴィアで息子を失った母親がトニーに辛らつな言葉を投げかけている。「私の死んだ息子の仇討ち(Avenge)は、いったい誰がしてくれるの?」と。
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ジモ大佐の立場を知った時点でアベンジャーズの正当性に不信を感じはじめた観客の心に、ここからさらに追い討ちをかける展開が待ち受ける。

ジモ大佐の罠により、自分の両親を殺した犯人がバッキーだったことを知ったトニーは、ジモ大佐そっちのけでバッキーに攻撃を仕掛ける。たしかにトニーは最愛の両親を奪われた。仇を討ちたいという気持ちは誰しも理解できる。しかし、バッキーは洗脳され、自由意志の無い状態だったこともトニーは知っている。そして、目の前には世界中で無差別な破壊工作を行っていた凶悪犯がいる。その上で、その凶悪犯を放置して、私怨のためにバッキーを攻撃する。果たしてこれはAvengeなのか?Revengeなのか?ここに至って、アベンジャーとリベンジャーの境界は限りなく曖昧になっていく。

映画のクライマックスは、キャップとトニーの1対1のバトルとなる。「キャプテン・アメリカ VS アイアンマン」というショービジネス的な冠を付けることはできるものの、しかしこの戦いはストーリー的になんのカタルシスもない。その戦いは、ジモ大佐というヴィランの計略によって生み出された、アベンジャーズ敗北の姿でしかないからだ。

そう、この映画は、アベンジャーズが何のスーパーパワーも持たない1人の一般人によって崩壊する様を描き、そしてアベンジャーズとリベンジャーの対比の積み重ねによって、観客がアベンジャーズの正当性を信じることができなくなって終わるのだ。これはスゴいことだ。こんなビッグバジェットの娯楽作品を、こんな際どい結末で終わらせることができるアメリカ映画の懐の深さにはただただ恐れ入るしかない。

さて、それではこの映画は、英雄たちの死を描いた物語なのだろうか?そうではない。絶望的な物語の中に、きちんと希望が残されている。
その一つが、本作からの新キャラクター、ブラックパンサーだ。彼はAvengeとRevengeの境界を行き来する存在である。肉親の仇討ちのために犯人を殺そうとする、ジモ大佐の映し鏡として配置されたキャラクターでもある。
彼は、バッキーが自分の父親を殺害したと思い込み、バッキーの命を狙う。しかし最終的にそれが誤解であったことを知り、私怨によって暴走していた自らの振る舞いを省みる。そして彼は、父を殺した真犯人・ジモ大佐を前に冷静に語りかけ、あまつさえその命を救い、こう告げる。「お前には裁きを受けさせる」と。彼は肉親を殺した相手に対し、RevengeではなくAvengeを果たすのだ。
このブラックパンサーがいるおかげで、この世界には確かに“正義のやり方”があることと、この世界にヒーローがいる意義が示唆される。

もう一つの希望は、他ならぬこの映画の主人公、キャップだ。
アベンジャーズは崩壊した。キャップは星条旗の印された盾を捨てた。今後は世界中で指名手配される犯罪者である。そんな英雄譚の終わりを感じさせる状況で、彼は「私は仲間たちを信じている。必要なときは連絡してくれ」とトニーに伝える。これ以上ない程のどん底の中でも、キャップは信念をまったく曲げていないのだ。
このあまりにも我が道を行きすぎるキャップの態度について、人の話に聞く耳をもたないキチガイポジティブ野郎と見るか、アメリカンウェイを貫き通すアメリカ人のエゴの現われと見るか、さまざまなレイヤーで解釈の仕様はあるだろう。しかし私は素直にこう解釈したい。どんな困難にも負けずに信じた道を進み、必ずハッピーエンドをもたらすもの。それこそがヒーローの条件なのではないか?
我らがキャップにこれ以上にない程の猛烈な苦難を与え、そしてその上で全く変わらぬ彼の信念を描いたMCUの制作者たち。この映画は、英雄譚の途中に過ぎない。これからキャップを待ち受けるさらなる苦難と、そしてそれを乗り越えていく彼の姿を、心から期待して待ちたいと思う。



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【※ネタバレしまくりです】

『ズートピア』、面白かったー!
ズートピア初のウサギ警官ジュディが、キツネの詐欺師ニックとともに、周囲の差別や偏見に負けずに肉食動物の連続誘拐事件に挑む・・・。という、良くも悪くもディズニーらしいお話だな、と油断して観ていたら、さにあらず。

映画中盤でジュディとニックは、狂暴化して監禁されていた動物たちを割とあっさり発見。手柄を立てたジュディは、自分を差別していた周囲を見返してやることができる。
ジュディは、記者会見で事件について聞かれて答える。「彼らは全員もともと肉食動物。彼らの中に眠る本能のせいで狂暴化してしまったのかも・・・」と。かつて草食動物たちから「お前はキツネだから狂暴で狡賢いんだろ」と差別された経験のあるニックはこれを聞いて当然憤慨。その様子をみたジュディは、全くの善意から「もちろんあなたは“彼ら”とは別よ」と発言する。

ここで、ようやくこの映画の真の主題が明らかになる。
この世の中には悪意とともに明白な差別をする“酷い奴ら”がいる。ジュディはそんな奴らに負けずに見返してやった。・・・本当にそうか?世の中の人々の大半は、自分が他者を差別していることに気づいてすらいないのではないか?ジュディがそうであったように。そう、あなたも。
映画前半の、「世の中には差別をする奴らがいるけど負けないようにしような!」的な典型的な話は、この世から差別が消えない最も根深い理由を、ジュディを通じて浮き彫りにするための、いわば前フリでしかないのだ。
“善人”の側から油断して映画を観ていた客を突然殴りつけに来る、すんごい構成だ。
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自分の中に隠れていた差別的な考えが原因でズートピアが混乱に陥ったのを見たジュディは、失意の中で故郷に帰る。そこで彼女は、かつて自分をいじめたキツネ、ギデオンに再会する。
ギデオンは今はパイを作って周囲と仲良く生活している。彼は「幼いころ、自分に自信がなくて周囲に当たり散らしていた。すまなかった」とジュディに謝る。彼は、「肉食動物だから」「草食動物だから」という話はしない。生まれや血筋のせいにしたりせず、過去の自分の振舞いを、あくまで彼個人の愚行として冷静に反省する。
観客は改めて気づく。“憎たらしい肉食動物”という一面しか見えてこなかったギデオンも、ジュディと同じように失敗から学び、前に進もうとしている血の通った一人なのだと。

観客とジュディがそのことに気づかされたタイミングで、事件の真相「夜の遠吠え」の正体が明らかになる。「夜の遠吠え」は、特定の集団を陥れようとして放たれるデマや中傷を、銃の形で戯画化したアイテムだ。悪評を広めたい相手をこれで狙い撃てば、その相手はたちまち周囲から疎まれ、蔑まれる存在になってしまう。
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わだかまりを捨て、再びタッグを組んだジュディとニックは、事件の真相に辿り着きながらも、黒幕ベルウェザーに追いつめられる。ベルウェザーは「夜の遠吠え」でニックを撃つ。狂暴化し、ジュディに襲いかかるかに見えるニック。
・・・一昔前のアニメなら、「ジュディを襲おうとした刹那、湧き上がる本能を愛の力で押さえつけてニックは自分を取り戻す」といった、エモーショナルな奇跡でも起きそうな場面である。が、そうはならない。
差別や偏見に立ち向かうために必要なものは、愛ではなく、理性だ。あやふやで主観的、ともすれば暴走しかねない感情に判断を委ねるのではなく、お互いの違いを理解し、共存できる道を探る理性を拠り所にすること。その姿勢こそが、差別と偏見を消し去る最大の武器だ。
ジュディとニックはきちんと作戦を練っていた。計算ずくでベルウェザーの企みをひっくり返す。悪意ある者の手で撒き散らされそうになっていた差別と偏見を、二人はスマートなやり方で止めてみせる。

(ちょっと脱線になるが、ここで使われるニンジン型のペンもニクい。最初は2人の間に無理やりな合意を作るために使われ、2回目にはジュディからニックへの心からの想いを受け止める容器として使われ、3回目には2人の最後の武器として事件解決の切り札になる。2人の関係性の変化とともにペンの役割も変わっていく)

ジュディとニックは1つの事件を解決するが、それでズートピアから差別や軋轢が消えるわけではない。私たちの世界から、差別や軋轢が簡単に消えてなくならないのと同じように。
それでもラストシーンのガゼルのライブパーティーの光景は、観客の心に希望を持たせてくれる。
多種多様なバックグラウンドの動物たちが、自分の好きな流儀で、1つの音楽に合わせて思い思いに踊る姿。それこそ、彼らが、そして私たちが、目指すべき社会の1つの理想のあり方だろう。
ユートピアまでの道のりはまだまだ果てしなく遠い。それでも諦めず、前に進み続けよう。何度失敗しても。
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【 ネタバレ全開なのでご注意ください 】

『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』観てきました。スゴい映画でした。

「どんな話なの?」と聞かれたら、観た人全員が「・・・えーっと」となるぐらいゴチャゴチャしたこの映画、冷静になって極限まで話を整理すると、
①バットマンとスーパーマンの対決を主軸に、②その戦いの過程で今後脅威になるであろう敵の姿と、③今後仲間になっていくであろう新ヒーローたちの姿が浮かび上がってくる、という構造のはずなのですが、要素が多すぎて作品としては空中分解寸前。

①は2人の“正義”の対立構造が弱いので単に誤解から起こるケンカにしか見えないし(「誤解からの殴り合い」はアメコミでは定番のパターンですが)、②はルーサーが相当エグいことをしてるのに、全体の要素が多すぎてイマイチその凶悪ぶりが立たないし、ルーサーが提唱する「いずれ宇宙から来る外敵」も今作では影も形も出てこないので全然機能しないし、③はアクアマンやフラッシュたちが突然動画でインサートされるだけなので作中で浮きまくり。映画としては超イビツです。

が、そんなアンバランスさも含めて個々の要素が良かれ悪かれ超面白かったので、私は大いに楽しめてしまいました。なんというか、加点方式なら100点超・減点方式なら0点以下の珍作。

で、個々の要素をめちゃくちゃなバランスで無理やりくっつけて出来た映画である以上、作品全体としての評論はあまり意味を成さない(ていうか私にまとめる力量がないだけか)と思ったので、今回は作品を観て気になったところを羅列して終わりたいと思います。


■映画冒頭、スーパーマンを災害または怪獣映画の怪獣または911テロとして描く、という演出の着眼点はホントに最高。日本人の感覚で言ったらウルトラマンを大震災になぞらえて描写するようなもんだ。すんごい踏み込み方!
(『ガメラ3』はいち早くそこに切り込んでましたね)

■スーパーマンとバットマンの対立は、アメリカにおけるカンザスの田舎の正義感と、銃犯罪はびこる都市部の正義感、乱暴にまとめるなら「善を成せ」と「悪を討て」の対立であり、さらにカンザスの古き良き伝統的正義のほうだけが核ミサイル一万発分の力を得てしまったアンバランスさが面白いところだと思うんだけど、そのへんの対立構造がストーリーの流れの中でイマイチ明確化されず。
2人のヒーローのオリジンを浮き上がらせるために父を配置し、2人がお互いを理解しあうために母を配置する、という構成はめっちゃ良かったものの、かといってコミック界最強の2トップをもってきた割に2人の対決や共闘が超絶カタルシスを生むような場面もほとんどなく、共演によって両キャラの新たな魅力が浮き彫りになるでもなく、同一の世界観にキャラクターを合わせるために2人とも最後まで窮屈なまま話が終わる印象だった。

■2人が和解した後のバットマンの台詞、“Martha will not die tonight”は本当にサイコー。これは素晴らしかったし本気で鳥肌立った。
ある晩、理不尽な悪によりマーサという母親を失い、その事件をきっかけにヒーローを志した男が、目の前にいる超人もマーサという母をもつ「人間」であることに気付き、そしてそのマーサが理不尽な悪に殺されかけていることを理解する。目の前の超人も、彼自身の「マーサ」のために正義を成そうともがいているのだと知る。ここでバットマンは自分の暴走に気付き、半ばはスーパーマンに、半ばは自分自身に向かって宣言するのだ。今度はマーサを絶対に救ってみせる、ここで彼女を死なせるようなことがあればヒーローの名折れだ、と。泣けるぜ!!!!
・・・が、よくよく考えるとスーパーマンはバットマンの正体が有名人ブルース・ウェインだと気づいてる(バットマンにもブルースと呼び掛けてる)ので、バットマンがバトル中に「なぜお前がマーサ・ウェインのことを知っている!?」と切り返すのはどう考えてもおかしいよね。まあ細かいことは気にしない。

■中東でスーパーマンが陰謀にハメられる展開の弱さも気になる。あの事件のせいで一般市民の間でスーパーマンバッシングが巻き起こる、という場面がない(専門家が議論してるだけで市井の人が見えてこない)ので、ロイスが残された銃弾を頼りに必死になって事件を追う動機が弱すぎる。スーパーマンバッシングの理由を作るなら、メトロポリス大崩壊を使った方がよっぽど納得感も出たのでは?
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■メキシコの「死者の日」に女の子を救出したカットは最高!スーパーマンを崇拝する一般市民の純粋な想いを表現しつつ、同時にその異常性を浮き上がらせる。

■バットマンのキャラクターはノーラン版より断然好き。犯罪との長い戦いで過激化した老獪なダークナイトリターンズ版を踏襲し、初老のくせに筋肉を縒り合わせた荒縄みたいなムッチムチの体型で「悪人絶対殺すマン」と化して、悪者を容赦なく撃ち、爆破し、刺し、折る!ステキ!!!!

■とはいえ今作最大の拾い物は、誰がなんと言おうとワンダーウーマン。観る前はまったく期待してなかったのに、超カッコいい!!!!ズンドコズンドコギュイーン!!!みたいな超イカした音楽と相まって、ご本人登場シーンどころか写真に写ってるだけのシーンまでカッコいい。早く単体出演作を!←AVの話みたいだ
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■レックス・ルーサーのキャラクター、イイ感じのキャラ設定ではあるんですが、なんか微妙にジョーカーの影響が見えちゃって既視感ありありというか、魅力が薄い。

■ジェレミー・アイアンズのアルフレッド、ちょっとロバート・ダウニーJr.に似てない?

■ロイス・レーン、前よりブスになってない?

■え!!!???世界的超大企業レックスコープのサーバールームは厨房のとなりで無施錠!?

■バスタブでのクラークとロイスのセックス(寸前)シーン。ザック・スナイダーはインタビューで「今作を撮るにあたり、マーベルがこうやってるから違うことしようとか、別のアプローチを探ろうとか、そういう意識はしてないよ」と言っていましたが、このシーンはマーベル作品との差別化アピールでは・・・と邪推。

■ラスト手前。スーパーマン死亡のモニュメントの周囲に人々が集まり、何の力も持たない一般人ひとりひとりの心にスーパーマンの成した正義の意志が灯っていく、という演出はよかった。でもこの作品では最初から最後まで一般人が前面に出てくる場面が一度もないので、この演出が作品内できちんと機能しているかというとそうでもない。

■コミックス「ダークナイト・リターンズ」の影響が色濃いシーンがチラホラ。アーマードバットマンのデザインはもちろん、スーパーマンが核ミサイルに焼かれてから太陽の光で復活するシーンも。葬儀した直後に実は・・・というラストシーンも「デス・オブ・スーパーマン」より「ダークナイト・リターンズ」の裏返しという見方もできるかも。


■で、ここからは根本的な問題なのですが、私はこの作品を大いに楽しんだ上で、「別に作らなくてよかったんじゃね?」とも思っています。

DCヒーローは並べたときにアベンジャーズと比べてキャラ間の性能差があまりに大きすぎる、ていうかバットマンのみ突出して物理的に脆いので、ジャスティス・リーグ方向に舵取りをしてしまうと、バットマンがカッコよく活躍できる場面が想像できないのです。今後アクアマンとか加入していったらなおさら。しかもルーサーの口振りからすると次回の敵も宇宙から来る超絶ヤバい奴系でしょ?大丈夫なのバッツ???

マーベルのビジネスパターンに対抗せず、個別キャラが自分に最適化された世界の中で活躍するほうが、DCキャラ的にはよかったんじゃないのかなあ、と素人心に勝手に心配してます。まあ、マーベルのビジネスパターンのほうが安定してお金が稼げる、ってのは分かるのだけれども。
DC的には大英断だと思いますが、これが吉と出るか凶と出るか。唯一つ言えるのは、どうせ私は観に行くので早く次を作ってくれ!ということです。

ジャスティス・リーグ、全力でお待ちしてます!
 
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 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』を観て来た。いやー、面白かった!

 キャプテン・ファズマのトホホぶりとか、どうやってポーは生きてたんだとか、レイとルークが出会うクライマックスで突然J-POPのMVみたいに空撮で回り込み始めるカメラは何なんだ、とかそういう細かいところはいったん置こう。
J・J・エイブラムスは、『スター・ウォーズ』ファンが一番観たかったもの、「新たなる希望と帝国の逆襲を足したような映画」を本当に作ってしまった。観に行く前に「エイブラムスが監督とか期待できねえわ~」とか調子こいたこと言ってて本当にすみませんでした。全力で土下座いたします。

 私がまずなにより心引かれたのは、キャラクターたち。
 古参ファンでも新規ファンでも、物語の中で感情移入できるお気に入りのキャラクターが見つけられる絶妙なバランスになっている。
 かつて『スター・ウォーズ』という神話世界を体験し、その世界を知っているオールドファンはハン・ソロたちの視点を楽しみ、神話世界を知らずミレニアム・ファルコンすらガラクタ扱いする無邪気な新規ファンはレイやフィンの視点で映画を追う。(相当数の観客は、その両者の視点を行き来しながら物語を追うことができるだろう)

 この、「目線を共有できるキャラクター」というのはスター・ウォーズにとって非常に重要なポイントだ。エピソード4『新たなる希望』公開当時、作品を熱狂的に支持した若い観客たちは、タトゥイーンに沈みゆく夕日を眺めながら「俺も都会に出て一旗あげちゃるけえ!」と焦燥をつのらせるルークの姿に自分たちを重ね合わせ、遥か彼方の銀河の物語を自分の物語として消化した。公開から10年、20年を経て、『スター・ウォーズ』を追体験した私たちの世代も同じだ。私たちは確かに、ルークの視点で物語の中に入っていった。
 壮大なスペースオペラの世界に当事者目線で観客を飛び込ませるというこの手法こそ、『スター・ウォーズ』がここまで大きく成功した理由の一つだろう。

 エピソード4~6にあり、エピソード1~3に足りていなかったのは明確にこの点だ。エピソード1~3では、エピソード4以降の状況がなぜ生まれたのかを説明するためにどうしても政治的駆け引きや状況説明のシーンが挟まれてしまうし、なにより、主人公の青年アナキンがいかに魅力的なキャラクターであろうと、すでに彼の来し方行く末を知ってしまっている我々は、どうしても歴史を振り返る傍観者の視点でそれを見てしまう。観客が胸を張って「これは俺たちの物語だ!」と叫ぶことができなくなってしまったのだ。
(※エピソード1~3はクソだったよな!と言いたい訳ではありません。物語の構造上、エピソード1~3はそうならざるを得ないのです)
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 エピソード7のキャラクターたちは、(ものすごく意図的に)人間味のあるキャラクターとして演出されている。彼らは汗まみれになり、咳こみ、あわてふためきながら駆け回る。シンボリックな位置を占める敵キャラクターのカイロ・レンですら、素顔をさらし、あまつさえ自らの心の弱さを懺悔までする。彼らは遥か彼方の銀河の住人かもしれないが、いや、だからこそ、観客にとって全くの他人であってはいけないのだ。

 もうひとつ、キャラクター達について重要なポイントがある。この映画は新旧二つの世代のキャラクターを配置してはいるが、物語でメインを張るのは、文句なしにレイやフィンたち新しい世代であるという点だ。

 『スター・ウォーズ』は大人から子供まで楽しめる作品だが、先ほど挙げたエピソード4のルークのキャラクターが強く示すように、なによりも「若者たちの物語」だった。そもそも『スター・ウォーズ』という作品自体、ルーカスを始めとする当時の新世代クリエイターたちが生み出した情熱の塊であり、新たな時代を作ろうという若者たちの意思の煌めきこそが『スター・ウォーズ』の原初的な魅力の一つだったはずだ。

 エピソード7は、先代の体験した偉大な神話世界に入っていく、新たな若者たちを主役に据える。それはつまり、古い世代の主役たちが舞台から消えていくことでもある。
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 そこで、ハン・ソロの死である。

 私はこのシーンにもちろん大きな衝撃を受けながら(しかもこのシーンはエピソード5『帝国の逆襲』でルークとベイダーが対峙するシーンの裏返しになっている!)、同時にものすごく納得もしていた。たしかにハン・ソロは死ななくてはならなかった。

 『スター・ウォーズ』サーガ9作は、3部作ごとに親の世代・子の世代・孫の世代の物語だ。それならばエピソード7からは孫たちの話でなくてはならない。『スター・ウォーズ』はいつだって、新しい世代が古い世代の志を継ぎ、独り立ちしていく映画だった。その独り立ちは、必ず庇護者の死をきっかけに始まっていた。エピソード1でクワイ=ガン・ジンが死んだように。エピソード4でオビ=ワンが死んだように。
 だからエピソード7でハン・ソロは死ななくてはならなかったのだ。

 庇護者の死。絶望的な状況。残されたのは、何の実績もない無名の若者。しかし、『スター・ウォーズ』のキャラクターたちは決して諦めない。身の程知らずの情熱だけを頼りに、改めて強大な敵と戦うことを決意する。
 だからこそ、ハン・ソロの死の直後にレイが立ち上がり、カイロ・レンを押しのけ、自らの力でライトセーバーを掴むシーンで観客はここまで胸を熱くし、その姿に全力で声援を送るのだ。

(ちょっと本筋から離れてしまうが、このレイとカイロ・レンのバトルのクライマックスにあるライトセーバー同士の鍔迫り合いのシーンは、本作中でも白眉とも言える素晴らしい演出だと思う。鍔迫り合いで明滅する赤と青の光の照り返しが、カイロ・レンの捨てきれない善なる心、レイの心の中にも隠れているであろうダークサイドの誘惑を同時に炙り出す。エピソード8以降の展開を否が応にも期待させる、痺れるシーン!)

 そしてハン・ソロの死の場面は、実はもう一つ、非常に大きな意味をもつ。ハン・ソロの死、それはつまり、巨大になりすぎた昔の『スター・ウォーズ』神話に頼るのではなく、ここから新しい物語の幕が開くと観客に宣言する場面でもある。
 この場面は、新しい世代が古い世代から遺志を受け継ぎ、自らの手で道を切り開いていくという物語上のターニングポイントであると同時に、J・J・エイブラムスら新世代のクリエイターたちが、偉大なる先人ジョージ・ルーカスを殺し、自らの手で新たなる神話を築き上げていくと宣言した瞬間なのだ。
 これは単に「有名キャラクターが死んだ」という話題性以上に、実はSF映画史に残る非常に重要かつ象徴的なシーンとして語るべき場面であると思う。

(私が冒頭でJ・J・エイブラムスに土下座したいといったのはまさにこの場面が理由である。エイブラムスって、いつも75点ぐらいの無難な映画を撮る人だと思っていた。ホントごめんなさい。こんなシーン、生半可な覚悟と勝算で撮れるはずがない)

 『スター・ウォーズ』は生まれ変わった。古い世代の神話を殺し、新しい世代の神話として。それは、レイとフィン、カイロ・レンの戦いの物語であると同時に、新しいクリエイターたちの戦いの物語でもある。新たな戦いを始めた彼らのハッピーエンドを、私は願ってやまない。