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<※ここだけネタバレなしです>
 『シン・ゴジラ』を観る前にこのページに来た方へ。この映画は、事前情報を何も入れずに観たほうが絶対にいい。なので、ネタバレに触れる前に早く劇場に行こう。すでに観た人からさまざまな評判が出始めているが、他人の評価を気にしすぎる必要はない。

 そもそも、本職の映画評論家はさておき、私も含めてネットで映画の感想を書いている素人にとって、映画は美点を挙げるより欠点を挙げるほうが圧倒的にラクである。観ていて違和感を感じた部分を指摘すればいいからだ。一方で、巧みに描写された部分に対しては、我々は往々にしてそれが巧みであったことに気づきすらせず通り過ぎてしまう。だからついつい長所よりも短所のほうを多くならべ挙げてしまうし、「どこが整っていたか」よりも「どこが歪んでいたか」のほうが具体的に言語化しやすい。
 『シン・ゴジラ』はかなり奇形な映画なので、イビツな点を特に指摘しやすい。本稿の後半で、私もこの映画に対してたくさん文句をつけているが、それとは別に、私が明確に言語化できていないすばらしい部分もたくさんある。あなた自身の感覚ですばらしい部分を発見するためにも、ぜひ劇場へ足を運んでほしいと思う。さあ、今すぐブラウザを立ち上げてチケットを取ろう!(ステマ)







<※ここからネタバレあり>
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 ここからはネタバレ込みで『シン・ゴジラ』の感想。
 映画トータルとしては不満な点がたくさんあるのだが、私はあるひとつの理由だけで、『シン・ゴジラ』は劇場で観る価値があったと思っている。それは、この映画が初代ゴジラ以来の、「ゴジラと観客とのファースト・コンタクト」を体験させてくれる作品だったからだ。

 我々にとって、ゴジラはもはや想像の範疇に収まるお馴染みのキャラクターになっている。しかし初代ゴジラはそうではなかった。なにせ、当時の観客は誰もゴジラというキャラクターと、その能力を知らなかったのだ。「見たこともない巨大な生物が出現する」「その生物は我々の予想を超えた破壊能力を有していた」という展開は、絶大なインパクトで観客を驚かせたはずだ。

 『シン・ゴジラ』に出てくるゴジラは、これまでの基準に照らし合わせれば、ゴジラと呼んでいいかどうかすらギリギリのレベルだ。しかし、本作のゴジラ初上陸シーンで、見たこともないおぞましい何かが画面に映る瞬間の驚愕や、東京大破壊のシーンでたかが大トカゲ1匹が本当の悪夢になる瞬間の絶望感こそ、60年前の観客が初代ゴジラを初めて見たときに感じた、未知の怪物に対する新鮮な衝撃と同じものだろう。
 54年の映画『ゴジラ』をお手本に、ゴジラというキャラクターを現代に再生させるにあたり『シン・ゴジラ』が選んだのは、ゴジラの姿かたちや設定を初代に似せて再現することではなかった。この映画は、60年前の人々が初めてゴジラを観たときの「なんだこのバケモノは!」という驚きの感情を忠実に再現してみせたのだ。
 本作のゴジラは、我々がこれまでに観てきたどんなゴジラとも違う。だからこそ逆説的に、“人知を圧倒する、見たこともない異形”という、初代ゴジラが持っていたキャラクターの本質をもっとも忠実に具現化している。

 本作のゴジラは、かろうじて我々の知るゴジラの形状を留めているが、劇中で語られるように、あの姿から羽を生やすかもしれないし、双頭や三つ首のバケモノになるかもしれない。「ゴジラかくあるべし」と先入観と固定観念に縛られたオールドファンを嘲笑うかのようなゴジラ描写はすばらしく痛快だ。公開前に『シン・ゴジラ』のビジュアルを観て、「やっぱりゴジラは直立歩行で人類を睥睨するあの姿勢に意味があるよね~」などと、代わり映えのしない議論に終始していた我々ゴジラオタクの背後で、「ゴジラの本質は“人知を圧倒する異形”である。姿かたちや設定は重要ではない」という、1歩も2歩も先を行く結論を突きつける映画が作られていたのだ。本当に恐れ入りました。

 ということで、『シン・ゴジラ』は、これまで積み上げてきたゴジラのキャラクターを放棄してまで、より本質的な部分で『ゴジラ』1作目の再現を果たした、作り手の勇気と志にあふれた映画だ。過去28作を経て、親しみ深い対象になっていたゴジラが、未知のバケモノに変わる瞬間。ゴジラファンとして、この貴重なファースト・コンタクトの感覚を体験できただけでも、『シン・ゴジラ』を劇場で観る価値があったと私は思っている。

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 次に、この映画を形成する重要な要素、VFXについても触れておきたい。
 私は日本の怪獣映画が大好きだが、いわゆる“特撮”は、目的ではなく手段であるべきだと思っている(ここでいう“特撮”は、着ぐるみ+ミニチュアによる狭義の意味での特撮)。着ぐるみでの撮影に盲目的にこだわるのはまったくのナンセンスで、迫真性をもって怪獣を描けるなら、着ぐるみでもギニョールでもCGでもミニチュアでも実景合成でも、最適な方法を選んでくれという考えだ。
 今回、ついに着ぐるみという楔から完全に解き放たれたゴジラがどう描かれるのか期待していたのだが、その部分はちょっと肩透かしという感じだった。ゴジラはだいたいビルの向こうにいるか遠景空撮の街中にいるかで、非現実の存在が現実の「今、ここ」とインタラクションを果たすという映画的快感に乏しい。「これこれ!こういうのが観たかったんだよ!」というシーンは要所要所にしっかりあるものの、大半の描写は昔ながらの怪獣演出をCGで踏襲する形であり、なおかつCG表現としてもゴジラ自体の質感や動きは相当に厳しかった。このVFXクオリティの限界が、せっかく“人知を圧倒する異形”として蘇ったゴジラの迫真性を減じていたのは非常に残念なところだ。
(とはいえ日本の映画制作費で言えば、このへんが限界点なのかも・・・がく)

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 さて、続いて映画全体の構成について。
 この映画には致命的な欠点があると思っている。現場の人々の痛みを描いていないところだ。
群像劇ではあるものの、主要メンバーは全員、会議室の中にいる背広組と、階級の高い制服組である。最前線で被害をこうむっている市井の人々や、対策プランを命がけで実行する現場スタッフは、1、2シーンを除いて数字として扱われるのみ。この国でもっとも死と隣り合わせになっている人たちをパーツとして描かずに、「国中みんなで頑張れば乗り越えられる!」というテーマを語るのはさすがに無理があるのではないか。劇中で「スクラップ&ビルドで日本は成長してきた」と語られるが、なまじ3.11を経て「スクラップ」の一言では片付かない被災者の苦難を知っているからこそ、スクラップの対価をボカしたまま背広組によるビルドの尊さを説くのは欺瞞だと思うのだ。

 作品テーマに根差した理由の他にもう1つ、現場の痛みを描くべきだったと私が思う理由がある。この映画は全編に渡り「叙事を積み重ねて興奮を作り出す」という演出方針で作られているので、演出上の打算的な観点からも、最前線の人間の描写を挟み込めばその狙いをさらに達成できたはずだからだ。
 その点で、主人公の矢口チームにも、安全な会議室から出て、市井の人々とともに死に向き合う試練が与えられるべきだったろう。東京脱出の際に圧倒的なゴジラ災害に巻き込まれ、チームの誰かを喪失するシーンを具体的に描けば、苦難にさらされる人々と矢口チームは同一化を果たすことができたし、再集結したチームが団結する流れもさらにハッキリ作れたはずだ(この映画のテンポならマジで2分ぐらいで描けると思う)。

 この「現場の人々を描いていない」ことの問題点は、ヤシオリ作戦のシーンで特に顕著になる。主人公・矢口が「現場」の力を称賛する割に、実行部隊の人間は顔の見えない無名のモブでしかないので、「官・民 & 在日米軍志願者が1つになってゴジラに挑む」という最高に燃えるはずの構造がくっきり浮き上がらない。東京消滅を防ぐため、虫けらのように死のうともゴジラに立ち向かう、現場のプロフェッショナルたちが人間として描かれないため、「小さな人間たちの勇気がゴジラを止めた」ではなく、「矢口の巧みな政治手腕がゴジラを止めた」になってしまっている。作戦実行部隊の肖像を数シーンだけでも足せば、もっと誠実に作品テーマに向き合い、なおかつ作劇上も興奮を上乗せできる内容になっただろう。
(作戦開始前に、ヤシオリ作戦の現場スタッフが矢口に対して「なーに、死んでも東京は守ってみせますよ!」と笑顔で見栄を切るシーンとかが10秒ぐらいあるだけで、第1部隊が全滅した後で矢口が無念の想いで目を閉じる瞬間がもっと強いシーンになったと思う)

 そのほかにもこの映画には欠けている描写がたくさんある。特に気になった部分を3つほど挙げてみる。

■ヤシオリ作戦、「数十種類つくった凝固剤の1つでポジティブな結果が出た」とセリフだけで説明され、いつの間にか人間側の最後の希望みたいになってしまうが、観客にしてみたらそこまで決定的な作戦という印象をもてない(この映画は特にセリフが多いため、その他大量の情報の中に埋没してしまう)。例えばゴジラの肉片サンプルに凝固剤を投与すると一瞬で活動が停止して「これならいけるぞ・・・!」と主人公たちが確信する場面など、視覚的に観客を納得させるシーンがあれば、作戦の存在感が段違いになっただろう。

■中盤の東京大破壊で最高に盛り上がってからのゴジラ急停止。15日後に目覚めるという推測データが提示されるおかげで、時間との戦いというサスペンスは発生するものの、予測不能な破壊神ゴジラの存在感は大きく減退する。人間側のほうで「東京が核兵器で消滅!?」という大きなドラマが動いてしまうこともあり、ストーリー上、ゴジラの存在が矮小化してしまう。
例えば、ゴジラの活動を停止させつづけるためには人間側が何らかのアクションを取りつづけることが必要で(膨大なエネルギーを費やして冷却するとか過熱し続けるとか)、動き出さんとするゴジラを制止しようと四苦八苦するなど、最後までゴジラの存在感を維持する設定が必要だったのではないか。

■ヤシオリ作戦の映像的な迫力不足も痛い。ゴジラの暴れ方も、中盤の東京大破壊シーンより明らかにスケールダウンするし、人間の思惑通りに2回も転んで目を回すオトボケぶりも相まって、ゴジラの恐怖感が急速に減退する。
中盤に放射熱線を吐いたのと同じスケールでゴジラを暴れさせてしまうと、脚本的にヤシオリ作戦が実行できない(ゴジラに近づけない)というジレンマは分かるが、それならゴジラが矢口のいる指揮所に向かって予想外の進行をはじめるとか、指揮所が背びれビーム(仮称)の流れ弾に被弾して作戦行動にタイムリミットが設けられるとか、別種のサスペンスを平行して走らせることで最後までスリルを維持すべきだったろう。

 ・・・などなど、特に後半戦で気になる部分が多々ある。で、この映画がなんでこんなに色々欠けてしまっているのか原因はものすごくハッキリしていて、それはもう「庵野監督の趣味で会議シーンに時間を使いまくっているから」に尽きる。たしかに『シン・ゴジラ』は会議シーンがメチャクチャおもしろくて、文句なしにこの映画の一番魅力的な部分ではあるのだが、そうは言っても会議の描写に時間を割きすぎた分、物語として重要なほかの要素を描く時間が足りなくなっている。

 会議シーン以外に作り手の嗜好が前に出すぎて作品バランスを壊している要素といえば、要所要所で流れる伊福部楽曲もそうだ。純粋にこの作品の雰囲気に合っていないので、曲がかかっても映像と乖離するばかりで観客のテンションも上がらない。
 このへんのイビツぶりを、クリエイターの信念と取るか、オタクの自己満足と取るか・・・。私個人は後者の印象を強くもってしまった。

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 とはいえ、冒頭にも述べたとおり、欠点を並べ立てるだけなら簡単にできる。この映画は、そういう大小の欠点をはらみつつ、作品全体として異様なエネルギーとテンション、奇形の楽しさに満ちている。開始1分からフルスロットルで走り始める物語のスピード感。主人公・矢口をはじめ、全員が超いいキャラのチームメンバー。そして何より、「ゴジラとのファースト・コンタクト」という素晴らしい体験を与えてくれたこの映画を、私はどうしても嫌いになることができない。いやー、本当に楽しい2時間だった。


 あ、最後にこの映画の興行収入予想について。
 私は前回のブログ記事で、「『シン・ゴジラ』はプロモーションの仕方さえ間違えなければ興収50億円は行くのでは?」と書いた。樋口監督で、スターを揃えて、VFX大作映画で、夏公開で、40~50代の客層も狙えるという点から、リメイク版『日本沈没』の53億をベンチマークとして予想した(庵野監督はエヴェの実績はあるが実写映画の成績は今ひとつなので要素としてプラマイゼロ)。『るろうに剣心 京都大火編』が52億稼いでるのでそのぐらいは行くだろう、という思いもあった。その上で、『シン・ゴジラ』はオタク向けよりも一般向けのプロモーションをすべきだ、と勝手な提言をした。
 が、実際に観てみたら、この映画はカップルや一般層にいきなりゴリ押ししてもしょうがない。作品自体も予想以上にエヴァだ。ゴジラはめっちゃ使徒で、映画としては要するにヤシマ作戦だ。なので東宝としては、まずはコンテンツに強い興味をもつコアファン層に火を付けてブームになってる感を創出し、俳優を安心材料に周辺の一般層を引き込む、というエヴァ「序」的な客層拡大の流れを狙ったプロモーション戦略だった・・・・のかな。かなり綱渡りな手法に見えるが、大丈夫だろうか。ゴジラ観た人は、一人一殺の覚悟で友達をがんがん劇場に引きずり込もうぜ。

(★8/30追記 : 大丈夫でした。53億をあっさり超えて順調に実績積み上げ中。庵野総監督と東宝の皆さまにスーパージャンピングトルネード土下座)


 あ、もう1つ蛇足!
 放射熱線を吐く時にゴジラの眼を瞬膜が覆って鬼神みたいな顔になるってアイディア、私も15年ぐらい前に思い付いてたんですよ!まじで!!!!

 ああ、語ることが尽きない。なにせ12年ぶりの国産ゴジラ映画だ。これから賛否含めてたくさん出てくるであろう他の人達の感想を読むのも楽しみだ。今月は、ゴジラのことだけ考えて生きていこう。






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私は幼稚園のころ生まれて初めて映画館に行き、『ゴジラVSビオランテ』を観た。正直その時のことはほとんど覚えていないし、内容もほとんど理解できなかったと思うが、その時からゴジラにハマり、今に至るまで怪獣特撮ファンとして生きてきた。

90年代中盤まで、ゴジラのコンテンツパワーは凄まじいものだった。毎年1本ゴジラが劇場公開され、配給収入2~30億を稼ぎ、ジブリと競うようにその年の邦画ランキング1、2位を獲っていた。特撮が大衆娯楽のトップになりえたのだ。しかしゴジラのコンテンツパワーは、『VSデストロイア』( 95年 ) の観客動員400万人をピークに急激に凋落していく。ピークから9年後の『FINAL WARS』( 04年 ) では観客動員は100万人にまで落ち込み、ゴジラは眠りについた。

なぜ、ゴジラというコンテンツは急速に観客に受け入れられなくなってしまったのだろうか。
私はエンタメ業界でプロモーションの仕事をしている。特撮ファンである上に、日々ひたすらユーザー行動の分析をしているので、ゴジラというコンテンツからユーザーが離れていった原因はずっと気になっていた。『シン・ゴジラ』公開も近づき、ちょうどいいタイミングでもあったので、この疑問に向き合ってみることにした。
本稿では、「なぜゴジラは受け入れられなくなったのか」の理由を探っていく。そしてそれを踏まえ、『シン・ゴジラ』ヒットのためには何が必要なのか、無責任な提言も行いたい。

とはいえ、詳細に裏を取りながら検証していくととんでもないスケールの作業になってしまうので、本稿では参考データを横目で見つつ、ほどほどの厳密性で考察していく。・・・ということで、話半分で読んでください。反証があれば、むしろガンガンいただきたい。自分の認識を正すためにも。

なお、ゴジラという単語は「日本版ゴジラ」という意味で使用する。98年、14年のハリウッド版『GODZILLA』は日本版ゴジラとはまったく別のブランドイメージの作品であるため、日本版ゴジラとは区別する。


【 おさらい : ゴジラの興亡 】==========
さて、それではまず84年以降に注目して、ゴジラの興亡を振り返ってみよう。
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75年の『メカゴジラの逆襲』から9年を経て、84年度版『ゴジラ』発表の時点で、ゴジラというコンテンツはすでに一度陳腐化していた。大森一樹氏が、当時の状況を端的に表すエピソードとして、84年度版『ゴジラ』の予告編を見るなり「なに・・・?今さらゴジラ・・・?」と失笑したカップルの話をしていたものだ。

が、大人の客層にも耐えうる内容を狙って作られた84年度版『ゴジラ』と『VSビオランテ』でイメージの一新に成功。ファミリー層向けに路線変更した『VSキングギドラ』から、ゴジラは1級エンタメコンテンツとしての地位を再獲得した。

ところが、上記のグラフでは人気絶頂のタイミングに見える『VSデストロイア』を最後に、VSシリーズは休止期間に入る。これは、東宝が自社でゴジラを製作するのを止め、ハリウッド版『GODZILLA』に引き継ぐ予定だったからだ。『GODZILLA』はシリーズ化を前提とした企画であり、東宝はその著作権使用料と国内配給で稼ぐ計画だった。実はこの時期、東宝は配給・興行で稼ぐ経営方針にシフトしようとしており、ほとんど自社で映画を作っていない。東宝が映画の自社製作をやめた理由を感覚的に理解するには、以下のグラフで90年代中盤の状況を見るのが一番手っ取り早い。
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( 東宝株式会社ホームページ「映画興行事業の再編」 (Click!) 
( 一般社団法人日本映像ソフト協会ホームページ「各種調査報告」 (Click!) 

65年以降、全国の映画館数と劇場来場者数は減りつづけ、95年に底を打った。また、ビデオ/DVD市場でも邦画ジャンルの売上は横ばいで、大幅な改善は期待できない状態。日本の映画産業は、死亡寸前だった。東宝は、金がかかってリスクの高い映画製作メインの商売から、配給・興行のみを行う会社へ軸足を移そうとしたのだ。94年に「ゴジラに次ぐコンテンツの柱にする」と宣言し、東宝が総力を挙げてメディアミックス展開した大作『ヤマトタケル』が失敗したトラウマも、配給中心のビジネスへ方針転換を進めた理由だろう。
( 日本映画産業の絶望的な状況は、シネコンの普及やコンテンツビジネスの市場拡大により改善していくが、それはまた別の話 )

結局、『GODZILLA』が想定以下の利益しか生まなかったのと、国内の映画産業に復活の兆しが見えはじめたため、東宝は『ミレニアム』でゴジラ製作を再開することになった。しかし4年のブランクを経て公開された『ミレニアム』以降、ゴジラは急速に失速していく。


【 考察 】==========
さて、前提条件のおさらいはこのぐらいにして、考察を始めよう。

なお、考察にあたり、「特撮はCGに負けた」的なステレオタイプな見方ではゴジラ凋落の説明はつかないと思っていたのだが、ゴジラファン層の成長ステージや、『VSデストロイア』以降の特撮映画の供給傾向を鑑みると、やはり96年ごろから始まるハリウッドのVFXディザスター映画ブームはゴジラの失速に大きく寄与した、という結論になった。順を追って説明していきたい。

ゴジラ映画観客動員数のグラフを振り返ると、大きく2つの失速ポイントがあるのが分かる。
『VSデストロイア』と『ミレニアム』の間にある観客の大幅減(第1の失速)と、
『大怪獣総攻撃』と『×メカゴジラ』以降起こる観客の大幅減(第2の失速)である。
まずは第1の失速の理由から考えていこう。ゴジラ映画が公開されない4年の間に、何が起きていたのか?ゴジラ映画の客層をいくつかのデモグラフィックに分け、個別に推察していく。ここでは、ゴジラ映画の客層を以下①~③のタイプに大別する。

< ①ファミリー層 >
家族でゴジラ映画を観に来る層で、動員数への寄与は一番多い。親と、小学生までの子供(大多数は男子)で構成される。この小学生男子は、成長とともにゴジラを“卒業”していくものと、ゴジラへの愛着度を高めて②の若年ゴジラファンに進むものに分かれる。

< ②中学生以上の若年ゴジラファン >
1人または友人とゴジラ映画を観に来る若年ファン。VSシリーズで初めてゴジラに触れた層。家族でゴジラを観に行ってファンになり、親離れ以降は自発的に映画館に通う。成長とともに緩やかにゴジラを“卒業”していく。一部はそのまま残って③の古参ファンに変化する。

< ③古参ゴジラファン >
『メカゴジラの逆襲』以前からゴジラを追っているような人。時代や作品に変化があってもゴジラを追いかけ、規模は小さいものの必ず一定の動員数に寄与するコアユーザー。

もちろんこれ以外にも様々なデモグラフィックの観客がいるはずだが、動員数に占める割合としては、この3集団を抑えておけば8割方カバーできると考える。


< 「第1の失速」でファミリー層に何が起こったか >
95年以降、4年に渡ってゴジラ映画が作られなかったことで、単純に新規ファンの流入が減ることになった。この時期は、特撮映画として『ガメラ』2、3と『モスラ』3部作、『ウルトラマンゼアス』があったため、ゴジラに繋がる入り口が完全に絶たれたわけではないものの、横綱たるゴジラと比べて動員規模は小さい( 『ガメラ2』『ガメラ3』の動員はVSシリーズの1 / 3であり、また内容的にもファミリーで見るにはやや難易度が高い。『モスラ』の動員はゴジラVSシリーズの6割程度 )。
ファミリー層は、ゴジラというコンテンツに対するこだわりが一番弱く、流動的に接する。常に一定数が新規流入し、一定数が成長とともに“卒業”するサイクルであるため、新規流入が減った以上、ファミリー層の母数は4年で純減したと考えられる。
それに加え、後述の「特撮イメージの低下」がこの後さらに影響を及ぼしていくことになる。


< 若年ゴジラファン層に何が起こったか >
『VSデストロイア』以降の4年間、中学生以上のゴジラファンにとって、彼らが望むような怪獣特撮映画の受け皿は『ガメラ2』『ガメラ3』の2本を除き、存在しなかった。
『モスラ』『ウルトラマン』は明確にゴジラシリーズよりも低年齢の小学生層を狙った作品であり、中学生以上に成長した彼らのニーズとは乖離していた。また、消費者として他の年齢層より自尊心が強く周囲の目を気にする中学生・高校生がこれら“小学生向け”映画を観に行くには、ユーザー心理として厳しいものがあった ( 「え?平成モスラシリーズもウルトラマンも、中学で観に行くの余裕じゃね?」と思ったあなた。こんなマニア向け記事をここまで読み進めている時点で、ご自身の感覚が一般人とだいぶズレているとご認識くだされ )。

それでは、VSシリーズとともに育った若年ゴジラファンは何を観ていたのか?
ゴジラの不在と時を同じくして、ハリウッド映画に「VFX都市破壊ムービー」とでもいうべき新ジャンルが生まれた。その最初期の作品が、96年の『ツイスター』と『インデペンデンス・デイ』である。

80年代以降、巨大建築1つや街区1つがふっ飛ぶようなスケールのアクション映画は数多くあったが、現実の大都市1つが丸々ぶっ壊れていく様を描写したハリウッド映画というのは意外にもほとんど無かった。( 84年~95年の間では『ゴーストバスターズ』ぐらいしかないのでは )
現代のリアルな大都市が破壊されていく描写は、90年代中盤まで、日本の怪獣映画しか提供するものがなく、ハリウッド映画と直接比較ができない、唯一無二の映画体験だったのだ。ところが、日本が独占していた都市破壊映像に、ついに直接的な比較対象が出てきてしまった。

96年『インデペンデンス・デイ』『ツイスター』
97年『ボルケーノ』『ダンテズ・ピーク』
98年『ディープ・インパクト』『アルマゲドン』『GODZILLA』

これらの作品が描いた圧倒的な破壊ビジュアルは、「都市破壊」という映像に対する観客の評価基準を急激に、そして大幅に書き換えた。

これは、「ハリウッドは最新のCGを使えたから日本の特撮よりもすごかった」という話ではない。
たとえば『インデペンデンス・デイ』は、当時最高峰のミニチュア特撮映画でもあった。巨大UFOがホワイトハウスを破壊するシーンのミニチュアでは、ハリウッドのスタッフ達が「画面にハッキリ写らなくとも、極限までリアリティを追求すべきだ」という信念のもと、ホワイトハウスの外観はもちろん、屋内の家具まで手作業で作りこんでいた。
この場面のメイキングを見た樋口真嗣氏は、「細かい手作業が日本の強みだと思っていたのに、向こうは潤沢な予算と製作期間の上に日本と同じレベルのこだわりまで持ち合わせていた」と衝撃を受けたと語っている。この樋口氏の言葉が、日本がこの分野で絶望的な差をつけられてしまった理由を端的に言い表しているだろう。

そんなわけで、中学生以上の若年ファン層は、ゴジラ不在の間にこれらのハリウッドVFX映画の洗礼を受けて育っていくことになる。この間に、彼らはハリウッド規模の予算で造られた都市破壊ビジュアルをベンチマークとして持つことになり、彼らの中で日本の特撮映画の価値は相対的に低下していった。


さらに、ここで生じた日本とアメリカのビジュアル面のクオリティ差は、理解の浅い世間一般層からは「日本の古臭いミニチュア特撮」「ハリウッドのカッコいいCG」という歪められた対立構造で理解されてしまった。上述の『インデペンデンス・デイ』の例が示すとおり、実際はそんな単純な図式ではないのだが、世間の大多数の人間がそう理解してしまったとき、それは「事実」として流通し始める。当時をリアルタイムで体験していた人は思い出してほしい。「日本の怪獣映画ってさ、着ぐるみとかミニチュアなのが一発で分かるじゃん?ハリウッドのは全部CGだから超リアルなんだよ」的なことを話す奴が大量にいたことを。
93年の『ジュラシック・パーク』以降高まりつつあった「日本の特撮=古くてダサいコンテンツ」という世間のイメージが、この時期から急速に一般化されていく。これにより、ファミリー層や若年ファン層の間にも次第に「ゴジラはダサい」という認識が広がっていき、彼らが『ミレニアム』以降に再びゴジラに戻ってくるのにブレーキをかけた。こうしてファミリー層と若年ファン層の相当数が、『VSデストロイア』を最後にゴジラを離脱することとなった。


< 古参ゴジラファンに何が起こったか >
一方、古参ファンにはほとんど何も起きていない。彼らは何があろうとゴジラを追い続ける、もっともゴジラへの愛着が強い人々だからだ。何年待とうと、隣のスクリーンでハリウッド超大作を上映していようと、それはそれとしてゴジラは観る。ので、この人たちは増えも減りもしていない。


ということで、いったんまとめてみよう。
■4年間のゴジラ映画不在の間に、新規ファンの流入が減少した。さらに、VSシリーズでファン化した若年層が、この時期勃興したハリウッド発のディザスター映画に流れていった。また、世間一般には「日本の古臭い特撮」「ハリウッドのカッコいいCG」という極度に単純化した理解が広まり、ゴジラブランドの求心力が大きく低下した。
・・・これが第1の失速の主な理由であると考える。第1の失速が特に急激なものに見えるのは、数年をかけてゆるやかに形成されていった「特撮=古い・ダサい」という世間の概念が、4年のブランクを経て突然可視化されたからであろう。


さて、続いて第2の失速について考えてみよう。
第1の失速によりファンの絶対数が減ったゴジラの観客動員数は、『ミレニアム』『×メガギラス G消滅作戦』で大きく落ち込む。コンテンツとして死の瀬戸際に立たされたゴジラは、しかし01年の『大怪獣総攻撃』でいったん観客動員240万人に回復する。
『大怪獣総攻撃』で何が起こったか。ご記憶の方も多いだろう、『とっとこハム太郎』との同時上映である。当時人気絶頂だったハム太郎バブルに乗っかり、ゴジラの人気は一時的に回復したかに見えたが、続く『×メカゴジラ』以降、動員数を再び急激に落とし、『FINAL WARS』をもって終了となった。ここで起きた出来事を、まずはファミリー層から考察していく。


< ファミリー層に何が起こったか >
『大怪獣総攻撃』の復調は1作限りのもので、「×メカゴジラ」以降すぐに失速した。新規ファンが根付かなかったのだ。それはなぜか。
なんといっても、作品の食い合わせが悪かった。子供たちは、ハム太郎とセットで、平成ゴジラでもダントツに怖い『大怪獣総攻撃』を観せられたのである ( 当時私が観た回でも、ハム太郎目当てで来たであろう親子連れが、『大怪獣総攻撃』の途中で退出していった )。小さな子供達があれを観て「ゴジラ大好き!」になると、東宝は本気で思ったのだろうか?
映画館を訪れたファミリー層は、ゴジラ映画をむしろ「地雷」と認識し、今後は避けるべき作品として認識したであろう。そもそも、「大人は楽しいが子供は怖いコンテンツ」と「子供は楽しいが大人は退屈なコンテンツ」を1つにパッケージングするという方式自体に致命的な問題があったとしか思えない。

さらに、『ミレニアム』以降の弱点として、6作のうち世界観を共有しているのは機龍2作のみで、各作品の設定がバラバラだという問題もある。毎回話がリセットされるため、ゴジラ以外に作品ごとの継続性・統一性がなく、追いかけるべきお馴染みのキャラクターもいない。これでは本当にゴジラ目当てのコア層以外は継続視聴のモチベーションがもたない。こうしてファミリー層は、ゴジラから離脱していった。


< 若年ゴジラファン層に何が起こったか >
VSシリーズで育った新世代ゴジラファン層の中でも一番若い層を『VSデストロイア』時点で小学1年と仮定しよう。彼らは4年のブランクを経ても『ミレニアム』と『メガギラス』は観に行ったかもしれないが、『大怪獣総攻撃』時点では中学1年である。中学1年はハム太郎と同時上映の映画なんか見に行かない。また、『VSスペースゴジラ』以前にファンになっていた少年たちは『大怪獣総攻撃』時点で中学2年~高校生。彼らに関しても言わずもがなだ ( 先ほども書いたように、中学生・高校生は他の年齢層よりも周囲の目を気にする消費者である )。
ここで、VSシリーズで育ったファン層とミレニアムシリーズの間に決定的な断絶が生じてしまった。彼らの大半は、精神的な障壁のためハム太郎以後のゴジラを観に行かなかったのだ。

そして、ハム太郎同時上映というハードルは、これまでゴジラ映画を必ず劇場で観ていた中高年の古参ファンすら引き離した可能性がある。ここはちょっとアンケートでも取ってみたいところだ。


ということで、第2の失速についてもまとめよう。
■当時人気絶頂だったハム太郎との同時上映でファミリー層を狙ったが、その方策によりVSシリーズで育ててきた中学生以上の既存ファン層が一斉離脱。さらに同時上映第1作目となった『大怪獣総攻撃』の方向性と、作品ごとの連続性も無いことからファミリー層の継続獲得にも失敗。ハム太郎が数年で失速したころには、ゴジラ単体に付くファンが激減していた。
・・・これが第2の失速の理由であると考える。


あらためて全体をまとめると、
96年以降、ゴジラのメディア上の不在に重なって、ハリウッドのディザスター映画が猛威をふるったことで、ゴジラはコンテンツとしての求心力を急速に弱めた ( 第1の失速 : 『ミレニアム』『メガギラス』が失速した理由 )。
さらにファン層の行動を読み違えてコンテンツ戦略が迷走したことで、既存ファンが急速に離れ、新規ファンも定着しなかった ( 第2の失速 : 『大怪獣総攻撃』以降、急速に失速した理由 )。
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ゴジラ凋落の原因について、全く新しい切り口を提示したというより、以前からファンの間で感覚レベルで語られていた共有認識を改めて補強した感じだが、以上が考察である。


【 どうなる、『シン・ゴジラ』 】=======
さて、ここまで紐解いた「なぜゴジラは受け入れられなくなったのか」を踏まえて、『シン・ゴジラ』ヒットの確度を考えてみたい。
もちろん、商業的なヒットの度合いと、作品としての完成度はまったく別物だということは理解している。しかし、エンタメ映画は純然たるビジネスでもあるので、ヒットしなければ続編も作られない。どうせならヒットしてもらいたい。そして毎年ゴジラ映画を観たいのだ。

まずは、『シン・ゴジラ』がどんなターゲット戦略で作られた作品なのかを考える。
商業エンタメ映画において、ターゲットとなる客層をきちんと決めて作品を組み立てるのは重要なことだ。以前このブログでも取り上げたとおり、『ジュラシック・ワールド』や『スター・ウォーズ フォースの覚醒』は、そもそもターゲットユーザーありきで作品の構成要素やストーリーを組み立てたお手本のような映画だ。劇場版『クレヨンしんちゃん』や『VSモスラ』なども同様だ。

「ゴジラ復活」という企画を考えたときに、ターゲット戦略はおそらく以下の2案に絞られる。

A案 : VSシリーズ初期にゴジラを体験した30代既婚男性&そのファミリーと、VSシリーズ後期・ミレニアムシリーズでゴジラを体験した20~30代独身男性をターゲットとする。そのために、彼らが子供のころ慣れ親しんだ、「怪獣対決路線」を踏襲する。ただし、既存シリーズの踏襲であるため、「古臭い・時代遅れ・子供向けのゴジラ」というマイナスイメージを払拭できないリスクがある。

B案 : ゴジラ経験層との繋がりは重要視せず、全く新しいターゲットユーザーを設定する。VSシリーズ・ミレニアムシリーズのイメージから敢えてかけ離れたゴジラ像を提示することで、過去作のイメージをリセットする。ただし、新規ファンを1から開拓しなくてはならないリスクがある。

『シン・ゴジラ』は後者の戦略を選んだ。
前段で見てきたように、ゴジラ経験層に対するゴジラの求心力はいまや非常に低く、またゴジラ自体に「古臭い」というマイナスイメージが付きまとうため、B案のほうが勝算は高い。また、今後怪獣対決路線に進むハリウッド版『GODZILLA』シリーズとの差別化も図れるので、的確な判断だと思う。( 『メカゴジラの逆襲』までにグチャグチャになったコンテンツイメージを84年度版『ゴジラ』で再構築したのと同じ状況になっていることにも注目 )

東宝は、『シン・ゴジラ』のターゲット客層として「オールターゲット。大人も子供も楽しめるエンタテイメントの塊を目指しています」と回答しているが、これは「マニア向けだと思わずにみんな観に来てね」的な宣言であり、実際には明確なターゲット設定がされているはずだ。
じゃあ具体的に、『シン・ゴジラ』は誰をターゲットにし、どんな作品としてヒットを狙っているのか?その部分を紐解くため「今、日本で映画がヒットする」というのはどういうことなのか、前提を確認しよう。直近3年間のヒット映画を並べてみる。

2013年 日本興行収入ランキング=======
 1  風立ちぬ
 2  モンスターズ・ユニバーシティ
 3  ONE PIECE FILM Z
 4  レ・ミゼラブル
 5  テッド
 6  ドラえもん のび太のひみつ道具博物館
 7  名探偵コナン 絶海の探偵
 8  真夏の方程式
 9  謎解きはディナーのあとで
 10  そして父になる

2014年 日本興行収入ランキング=======
 1  アナと雪の女王
 2  永遠の0
 3  STAND BY ME ドラえもん
 4  マレフィセント
 5  るろうに剣心 京都大火編
 6  テルマエ・ロマエII
 7  るろうに剣心 伝説の最期編
 8  ドラえもん 新・のび太の大魔境 〜ペコと5人の探検隊〜
 9  思い出のマーニー
 10  ゼロ・グラビティ

2015年 日本興行収入ランキング=======
 1  ジュラシック・ワールド
 2  ベイマックス
 3  映画 妖怪ウォッチ 誕生の秘密だニャン!
 4  バケモノの子
 5  シンデレラ
 6  ミニオンズ
 7  ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション
 8  HERO
 9  名探偵コナン 業火の向日葵
 10  インサイド・ヘッド

これを見て分かるとおり、今、日本で大ヒットする映画はほぼ2種類。「ファミリー映画」か「デート映画」だ。このランキングを改めて眺め、映画ファンとして衝撃を受けるが、映画館とはそもそも家族連れかカップルのためのものなのである。映画館に1人で足しげく通う我々のような客はニッチな存在なのだ。

「ファミリー映画」「デート映画」に加え、別の切り口でカテゴライズするなら、
「超有名俳優が出ている」「映像がスゴい」「人気アニメ」「女性に受ける」
である (「女性に受ける」が重要なのは、女性は複数人で劇場に行くことが多く、クチコミ波及度も高いので一部に火をつければ周辺層への波及が見込めるから)。

非常に乱暴にまとめると、「上記6つのカテゴライズ要素に○が多く付く映画ほどヒットの確度が高い」ということになる ( 『ハリー・ポッター』や『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズを思い浮かべてみよう )。その上で、現在断片的に流れてくる情報を見る分には、『シン・ゴジラ』にはヒットに繋げられる要素が十分ありそうだ。

一番の武器は、有名俳優が大量に出演しているところだ。長谷川博己・竹之内豊らの起用は、「デート映画」または「女性に受ける映画」を実現する最善手であると言える ( ※一般論です。もちろんゴジラ目当てで観に行く女性だっています )。

また、「スゴい映像」に関しても、ハリウッド映画ばりの超スケール都市破壊は無理だとしても、ゴジラの場合は日本の観客が見慣れた景色を破壊することができるため、映像がもたらすインパクトにブーストがかけられる。これは非常においしいアドバンテージだ。
「特撮」という概念自体が、一周回って「日本ならではの技術」「特撮とCGの融合」的な前向きな文脈でも語られるようになった今だからこそ、映像表現への不安が観客を強く遠ざけるということもなさそうだ。
2000年頃と比べれば、デジタル表現のコモディティ化により、国内映画の製作環境でも、アイディアと見せ方次第で安っぽく見えない画作りが格段にしやすくなっている点も追い風になるだろう。

なので、「恐怖」を真正面から描く以上ファミリー層の獲得は厳しいかもしれないが、見せ方次第で「デート層も狙えて、スゴい映像のアピールも可能な作品」という、ヒット映画の方程式に載せることは十分できるはずなのだ。


さて、その上で私が懸念しているのは、プロモーションの方針だ。
個人的には、『シン・ゴジラ』は大コケするということはなく、そこそこちゃんとヒットすると思っている(売り方さえ間違えなければ50億円は行くのでは)。だが、もっと上を狙えるポテンシャルがあるところを、プロモーションの仕方で損をしている気がしてならない。現在展開中の『シン・ゴジラ』のコピーを見てほしい。
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「我々は、何を作ろうとしているのか」
「現実 ( ニッポ ン) 対 虚構 ( ゴジラ ) 」

完全にオタク向けだ。
「製作陣が何に挑んで何を実現しようとしているのか」「震災や原発事故という、フィクションを超えるほど衝撃的な危機が襲った現実をさらに超えるような、圧倒的な虚構の世界を構築する」などというメッセージは、すでにゴジラというコンテンツを理解しきった者にだけ響くメッセージである。果たしてこんな内輪受けのメッセージを見て、ライト層 / 新規層が『シン・ゴジラ』を観に行きたくなるだろうか?

予告動画についても懸念がある。
繰り返しになるが、今のゴジラに大衆を動かすコンテンツパワーはほとんどない。せっかく起用した豪華な俳優陣を、ゴジラの添え物ではなく主役としてきちんと立たせないと、オタク以外の観客を動員することはできない。予告動画にはたしかに人気俳優はたくさん映っているが、ほぼ全員が棒立ちの会話シーンばかり。俳優目当ての観客があの映像を観て、好きな俳優がカッコよく活躍している展開を想起できるだろうか?もちろん、あの映像はティザーなので、これから本予告が出てくるのだと思うが、そこでも同じような編集方針で映像が作られていた場合、多くのお客を取り逃がすことになってしまう。

最後に、全体の露出方針について。
プロモーションの役割は、ざっくり言うなら「認知拡大」と「理解深化」である。現在『シン・ゴジラ』が行っている膨大なコラボは、すべて認知拡大のための施策であり、じゃあ実際に『シン・ゴジラ』はどんな作品なのか、という理解深化の部分はほとんどケアされていない。これが非常に危うい ( パルコでゴジラのポスターを見た女性が、それだけで『シン・ゴジラ』を観に行くようなことは決してない )。

現在はティザー期間なので認知拡大に全力投球し、公開直前から理解深化のための施策を展開していく予定ならよいのだが、東宝側がゴジラのコンテンツパワーを過信し、「ゴジラ新作をやるよ!と名乗りさえすればお客は観に来るはず」と考えているのではないか、という不安がある。いくら露出しても、今のゴジラにそれだけの力はない。『シン・ゴジラ』という作品を理解して、「自分ゴト化」できなければ大多数のお客は映画館にまで行かないのだ。


【 まとめ 】==========
最後の最後で、外野が無責任に不安を煽るような物言いになってしまった。が、ゴジラを愛する気持ちと『シン・ゴジラ』の大ヒットを願う気持ちはホンモノなので、そこは信じていただきたい。マジで。

今回、自分の好きなキャラクターを単なる「コンテンツ」として扱い、その作品群を数字データで評価するのは、私自身も違和感を感じる作業ではあった。しかし、ドライな視点からゴジラを見つめなおしたことで、改めて見えてきたものも多かった。さんざんマーケティング的な観点からゴジラを分析し、この文章を読み返した上で私が今思うことはただ1つ、「マーケティングの理屈なんてクソくらえ」ということだ。だいたい、放射能を浴びたデカいトカゲが、世界中でこんなにも愛されている理由を説明できるマーケティング理論なんてあるか?キャラクターの本当の魅力というのは、数字ではけっして読み解けない部分にこそあると、私は思っている。

理屈はこねまわしてスッキリしたので、期待半分、不安半分、あとは観るだけだ。
『シン・ゴジラ』、楽しみにしています。






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【※ネタバレ全開です】

『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』めっちゃ面白かった!

『エイジ・オブ・ウルトロン』と『バットマンVSスーパーマン』で顕著だった、「要素を詰め込みすぎてバランスがメチャクチャ」というアメコミ超大作映画の傾向は本作でも全開。特に前半に関しては言いたいことが山ほどあるが、長くなりすぎるので本稿では触れない。
MCU全体戦略のためにスタジオ側が要求した膨大なマーチャン要素を映画に入れ切った監督の心中をお察しします、とだけ言っておきたい。

さて、この映画は「キャプテン・アメリカ VS アイアンマン」という直球の対決映画と思わせておいて、実はもうひとつ重要な対立構造がストーリー展開とともに明らかにされ、それこそが作品のテーマになっているという点が一番スゴイところだと思う。自分用の整理も含め、そのあたりをちょっとまとめたい。


映画冒頭から、アベンジャーズの活動を国連の監視下に置く「ソコヴィア協定」の採用を巡って意見が対立するキャップとトニー。

キャップとトニーの対立は、『エイジ・オブ・ウルトロン』で浮き彫りになったように、「人間の強さを信じるヒーロー」と「人間の弱さを見つめたヒーロー」というキャラのオリジンに関わる根本的な対立である。
キャップは、「弱かった自分に負けず、信念を曲げずに生まれたヒーロー」である。そのため、彼はすべての人々は自分と同じように自らの手で未来を選ぶことができると信じ、個人の意思で未来を切り開くことを重要視している。一方、アイアンマンは「過ちを犯した自分の罪滅ぼしのために生まれたヒーロー」である。幾度も道を誤ったトニーは、人間は愚かで過ちを犯してしまうものであり、自分たちが暴走しないよう、適切な監視の目が必要だと考えている。
ヒーローを公的組織が管理するという協定に対し、もともとアメリカ軍に所属していたキャップが反対し、民間企業の社長であるトニーが賛成するという、一見すると逆に見える両者の立場も、このオリジンにこそ理由がある。

そもそもキャプテン・アメリカというキャラクターは、古き良きアメリカンウェイの象徴であり体現者だ。原作コミックスで描かれたように、彼が忠誠を誓うのは政府ではなく、アメリカがもつ“自由を尊ぶ精神”である。そしてアメリカは西部開拓時代から、「自分達の身は自分達で守るべし」の信念の国だ。アメリカ独立宣言には「もし政府が間違ったことをするようなら、国民は立ち上がり政府を倒す権利がある」という一節すらある。
・・・もし政府が間違っていると思ったら立ち向かう。キャップが『ウィンター・ソルジャー』と本作で取った行動を思い出そう。彼の行動は、古き良きアメリカンウェイから1ミリもブレていないのだ。

(アメリカ国民に銃の所持権があるのも、この建国当時の理念が大きな理由の一つだ。四六時中、銃犯罪の脅威が叫ばれつつも、一番簡単な「国民は銃を持っちゃダメ法案」がアメリカで実現しないのは、「自分たちを守るための正当な力の所持」という考え方がアメリカ人のアイデンティティとして非常に重要だからだ。この考え方は、本作をさらに深く読み解く上で大きな鍵となると思うので、誰かもっと深堀りしてくれ)
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ということでキャップとトニーはアベンジャーズの未来を決めるにあたり、否応なしに対立する。この映画はその対決の結果を描く・・・と観客の誰もが思う。ところが違うのである。予告編からも敢えて完全に伏せられていた本当のテーマが、映画も終盤に近くなってから浮かび上がってくるのだ。

ソコヴィア協定を巡る両者の対立は、割と早々にバッキーの処遇を巡る対立にシフトする。そして実はその対立を裏で煽っていた者がいた。その者こそが本作のヴィラン、ヘルムート・ジモ大佐である。・・・実は黒幕がいた!という所までは、まあ観客の予想の範囲内。
ところが、ジモ大佐がアベンジャーズ内の対立を煽った理由は「ソコヴィアで失った家族の復讐」だった。このことが明らかになった瞬間、この作品が「アベンジャーズ VS リベンジャー」の映画であったことが判明する。

AvengeとRevengeは、どちらも機械的に和訳すれば「復讐する」という意味の語だ。
が、Avengeは、不正を正すためや他者のために行う正当性のある行為という意味をもつ一方、Revengeは、私的な恨みを自らの手で晴らすという意味になる。
『アベンジャーズ』1作目で、コールソンが死ななくてはならなかった理由もここにある。コールソンの仇を討つ(Avenge)ために、バラバラだったヒーローたちは「アベンジャーズ」というチームになる。そしてチタウリ軍とロキをぶちのめし、Avengeを果たしたのだ。地球に攻め込んできた残虐宇宙人を返り討ちにしただけだから、こんなにシンプルで誰からも異論の出ないAvengeは無いだろう。
しかし『エイジ・オブ・ウルトロン』ではそうはいかない。そもそもウルトロンを作ったのはアベンジャーズだ。そしてウルトロン暴走の巻き添えで、国が一つ消滅する。アベンジャーズは苦戦の末にウルトロンを破壊するが、これではもはやAvengeもクソもない、地球規模で迷惑をかけた大失態である。

ジモ大佐はウルトロン暴走の巻き添えで家族をすべて失った。そしてその復讐のために、アベンジャーズメンバーの同士討ちを計画する。何のスーパーパワーも持たない彼にとって、それがアベンジャーズにRevengeを果たす唯一の手段だったのだ。
たしかにジモ大佐の仇討ちには、アベンジャーズの行為と決定的に違う部分がある。ウィーンのソコヴィア協定署名式を爆破したように、無関係の人々を意図的に巻き込んでいる点だ。
しかし、ジモ大佐のようなヴィランの行為によって家族を殺されようが、アベンジャーズの失態が原因となった厄災で家族を殺されようが、残された人々にとっては同じことなのではないか?そして、家族全員を失ったジモ大佐から見れば、この復讐も正当な理由のあるAvengeなのではないか?この2つの問いを観客の心に呼び起こすために、映画冒頭、ソコヴィアで息子を失った母親がトニーに辛らつな言葉を投げかけている。「私の死んだ息子の仇討ち(Avenge)は、いったい誰がしてくれるの?」と。
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ジモ大佐の立場を知った時点でアベンジャーズの正当性に不信を感じはじめた観客の心に、ここからさらに追い討ちをかける展開が待ち受ける。

ジモ大佐の罠により、自分の両親を殺した犯人がバッキーだったことを知ったトニーは、ジモ大佐そっちのけでバッキーに攻撃を仕掛ける。たしかにトニーは最愛の両親を奪われた。仇を討ちたいという気持ちは誰しも理解できる。しかし、バッキーは洗脳され、自由意志の無い状態だったこともトニーは知っている。そして、目の前には世界中で無差別な破壊工作を行っていた凶悪犯がいる。その上で、その凶悪犯を放置して、私怨のためにバッキーを攻撃する。果たしてこれはAvengeなのか?Revengeなのか?ここに至って、アベンジャーとリベンジャーの境界は限りなく曖昧になっていく。

映画のクライマックスは、キャップとトニーの1対1のバトルとなる。「キャプテン・アメリカ VS アイアンマン」というショービジネス的な冠を付けることはできるものの、しかしこの戦いはストーリー的になんのカタルシスもない。その戦いは、ジモ大佐というヴィランの計略によって生み出された、アベンジャーズ敗北の姿でしかないからだ。

そう、この映画は、アベンジャーズが何のスーパーパワーも持たない1人の一般人によって崩壊する様を描き、そしてアベンジャーズとリベンジャーの対比の積み重ねによって、観客がアベンジャーズの正当性を信じることができなくなって終わるのだ。これはスゴいことだ。こんなビッグバジェットの娯楽作品を、こんな際どい結末で終わらせることができるアメリカ映画の懐の深さにはただただ恐れ入るしかない。

さて、それではこの映画は、英雄たちの死を描いた物語なのだろうか?そうではない。絶望的な物語の中に、きちんと希望が残されている。
その一つが、本作からの新キャラクター、ブラックパンサーだ。彼はAvengeとRevengeの境界を行き来する存在である。肉親の仇討ちのために犯人を殺そうとする、ジモ大佐の映し鏡として配置されたキャラクターでもある。
彼は、バッキーが自分の父親を殺害したと思い込み、バッキーの命を狙う。しかし最終的にそれが誤解であったことを知り、私怨によって暴走していた自らの振る舞いを省みる。そして彼は、父を殺した真犯人・ジモ大佐を前に冷静に語りかけ、あまつさえその命を救い、こう告げる。「お前には裁きを受けさせる」と。彼は肉親を殺した相手に対し、RevengeではなくAvengeを果たすのだ。
このブラックパンサーがいるおかげで、この世界には確かに“正義のやり方”があることと、この世界にヒーローがいる意義が示唆される。

もう一つの希望は、他ならぬこの映画の主人公、キャップだ。
アベンジャーズは崩壊した。キャップは星条旗の印された盾を捨てた。今後は世界中で指名手配される犯罪者である。そんな英雄譚の終わりを感じさせる状況で、彼は「私は仲間たちを信じている。必要なときは連絡してくれ」とトニーに伝える。これ以上ない程のどん底の中でも、キャップは信念をまったく曲げていないのだ。
このあまりにも我が道を行きすぎるキャップの態度について、人の話に聞く耳をもたないキチガイポジティブ野郎と見るか、アメリカンウェイを貫き通すアメリカ人のエゴの現われと見るか、さまざまなレイヤーで解釈の仕様はあるだろう。しかし私は素直にこう解釈したい。どんな困難にも負けずに信じた道を進み、必ずハッピーエンドをもたらすもの。それこそがヒーローの条件なのではないか?
我らがキャップにこれ以上にない程の猛烈な苦難を与え、そしてその上で全く変わらぬ彼の信念を描いたMCUの制作者たち。この映画は、英雄譚の途中に過ぎない。これからキャップを待ち受けるさらなる苦難と、そしてそれを乗り越えていく彼の姿を、心から期待して待ちたいと思う。



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【※ネタバレしまくりです】

『ズートピア』、面白かったー!
ズートピア初のウサギ警官ジュディが、キツネの詐欺師ニックとともに、周囲の差別や偏見に負けずに肉食動物の連続誘拐事件に挑む・・・。という、良くも悪くもディズニーらしいお話だな、と油断して観ていたら、さにあらず。

映画中盤でジュディとニックは、狂暴化して監禁されていた動物たちを割とあっさり発見。手柄を立てたジュディは、自分を差別していた周囲を見返してやることができる。
ジュディは、記者会見で事件について聞かれて答える。「彼らは全員もともと肉食動物。彼らの中に眠る本能のせいで狂暴化してしまったのかも・・・」と。かつて草食動物たちから「お前はキツネだから狂暴で狡賢いんだろ」と差別された経験のあるニックはこれを聞いて当然憤慨。その様子をみたジュディは、全くの善意から「もちろんあなたは“彼ら”とは別よ」と発言する。

ここで、ようやくこの映画の真の主題が明らかになる。
この世の中には悪意とともに明白な差別をする“酷い奴ら”がいる。ジュディはそんな奴らに負けずに見返してやった。・・・本当にそうか?世の中の人々の大半は、自分が他者を差別していることに気づいてすらいないのではないか?ジュディがそうであったように。そう、あなたも。
映画前半の、「世の中には差別をする奴らがいるけど負けないようにしような!」的な典型的な話は、この世から差別が消えない最も根深い理由を、ジュディを通じて浮き彫りにするための、いわば前フリでしかないのだ。
“善人”の側から油断して映画を観ていた客を突然殴りつけに来る、すんごい構成だ。
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自分の中に隠れていた差別的な考えが原因でズートピアが混乱に陥ったのを見たジュディは、失意の中で故郷に帰る。そこで彼女は、かつて自分をいじめたキツネ、ギデオンに再会する。
ギデオンは今はパイを作って周囲と仲良く生活している。彼は「幼いころ、自分に自信がなくて周囲に当たり散らしていた。すまなかった」とジュディに謝る。彼は、「肉食動物だから」「草食動物だから」という話はしない。生まれや血筋のせいにしたりせず、過去の自分の振舞いを、あくまで彼個人の愚行として冷静に反省する。
観客は改めて気づく。“憎たらしい肉食動物”という一面しか見えてこなかったギデオンも、ジュディと同じように失敗から学び、前に進もうとしている血の通った一人なのだと。

観客とジュディがそのことに気づかされたタイミングで、事件の真相「夜の遠吠え」の正体が明らかになる。「夜の遠吠え」は、特定の集団を陥れようとして放たれるデマや中傷を、銃の形で戯画化したアイテムだ。悪評を広めたい相手をこれで狙い撃てば、その相手はたちまち周囲から疎まれ、蔑まれる存在になってしまう。
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わだかまりを捨て、再びタッグを組んだジュディとニックは、事件の真相に辿り着きながらも、黒幕ベルウェザーに追いつめられる。ベルウェザーは「夜の遠吠え」でニックを撃つ。狂暴化し、ジュディに襲いかかるかに見えるニック。
・・・一昔前のアニメなら、「ジュディを襲おうとした刹那、湧き上がる本能を愛の力で押さえつけてニックは自分を取り戻す」といった、エモーショナルな奇跡でも起きそうな場面である。が、そうはならない。
差別や偏見に立ち向かうために必要なものは、愛ではなく、理性だ。あやふやで主観的、ともすれば暴走しかねない感情に判断を委ねるのではなく、お互いの違いを理解し、共存できる道を探る理性を拠り所にすること。その姿勢こそが、差別と偏見を消し去る最大の武器だ。
ジュディとニックはきちんと作戦を練っていた。計算ずくでベルウェザーの企みをひっくり返す。悪意ある者の手で撒き散らされそうになっていた差別と偏見を、二人はスマートなやり方で止めてみせる。

(ちょっと脱線になるが、ここで使われるニンジン型のペンもニクい。最初は2人の間に無理やりな合意を作るために使われ、2回目にはジュディからニックへの心からの想いを受け止める容器として使われ、3回目には2人の最後の武器として事件解決の切り札になる。2人の関係性の変化とともにペンの役割も変わっていく)

ジュディとニックは1つの事件を解決するが、それでズートピアから差別や軋轢が消えるわけではない。私たちの世界から、差別や軋轢が簡単に消えてなくならないのと同じように。
それでもラストシーンのガゼルのライブパーティーの光景は、観客の心に希望を持たせてくれる。
多種多様なバックグラウンドの動物たちが、自分の好きな流儀で、1つの音楽に合わせて思い思いに踊る姿。それこそ、彼らが、そして私たちが、目指すべき社会の1つの理想のあり方だろう。
ユートピアまでの道のりはまだまだ果てしなく遠い。それでも諦めず、前に進み続けよう。何度失敗しても。