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【ネタバレしまくりです】

『沈黙‐サイレンス‐』すごかったー!
冒頭から、広い空間がほとんど描かれず、カメラも忍び足のような速度でしか動かず、登場人物の動きを抑制しまくった演出(1カットで手を動かすとか顔を動かすとか、小さな動作を1つ2つするだけ)が生み出さす凄まじい閉塞感に緊迫しっぱなし。引き絵のシーンでも徹底された農民の手や肌の汚れなど、リアリティある絵作りのおかげで、日本の時代劇にある「ごっこ遊び」的な安心感がまったくなかったのも素晴らしかったです。

そんなわけで1本の映画としてもバッチリ楽しめたのですが、細かい部分から全体構成まで、「小説の映像化」という意味でも物凄く楽しめたので、今回はそのへんについてまとめます。

まずは細かい部分をつらつらと。

・原作だとパードレたちが日本語を喋る(彼らは知識層なので、布教先の異言語を勉強してる)部分を、映画では日本人側がカタコトの英語を話すようにガッツリ変更。よくよく時代背景を考えると江戸時代の極貧農民が英語喋れる時点でおかしいんだけど、「まあ世界の誰でもちょっとは英語を話せるよね」って状況に生きる現代人から見ると、この方式が一番違和感が少ないし、世界配給を考えても正しい判断だと思う。(ていうかそもそもポルトガル人が英語喋ってるのは忘れよう)

・原作だと陽気に振る舞っていたガルペを気難しい性格にし、一方で主人公ロドリゴを楽天的な性格に変更。そのうえ愛くるしい顔立ちのアンドリュー・ガーフィールドが終始困り顔でロドリゴを演じるとあれば、「宗教的使命感により蛮地に飛び込む聖職者」という馴染みの無さすぎる境遇の主人公にもついつい感情移入してしまうというものだ。

・原作だと割とサラリと出てきて消えるモキチのキャラクターを膨らませ、「苦しむ日本キリシタン」をハッキリと可視化。モキチたちの苦難を傍観するしかない立場として、われわれ観客と主人公ロドリゴの同一化を図る。塚本晋也のドハマりっぷりもあり、モキチの役はとてもよく機能していたと思う。

・原作でイエスの姿としてロドリゴが思い浮かべていた「ポルゴ・サンセポルクロ」の絵画を変更し、だいぶ沈黙してそうな顔つきのイエスに。これは本当にイイ判断だったと思う。だってポルゴ・サンセポルクロの絵のキリスト、強そうすぎるもん。あ、映画に出てきたキリストの絵って、なんか有名な宗教画なんですかね?詳細求む。
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問題のポルゴ・サンセポルクロの絵。異教徒を物理で殴って改宗させそうなイエスさま。


・原作では「弱者の象徴」としての役割の比重が高かったキチジロー。映画では、ロドリゴが日本上陸時から神に抱く「疑念の影」として付かず離れず周囲につきまとう役割も果たしたため、ロドリゴの不安と迷いを要所要所で可視化する。うまい!


細かい部分は書き始めるときりがないのでこの辺にして、全体の構成について思ったことを2つほど書きます。

まず1つ目は、作品のサブテーマについて。
原作で重要なテーマの1つだった「日本人の精神には神は定着しない」という日本人だけに響くドメスティックな問題提起を弱め、「キリスト教的世界観を唯一絶対の真理として異文化を塗りつぶす西洋側の考え方も驕りではないか?」という問いかけに比重を移しています。西洋の驕りを指摘する発言は、原作小説でも日本人側の言い分として出てくる部分なので、ここをきちんと拾って作品テーマに盛り込むあたり、スコセッシ監督が原作にとことん誠実に向き合って換骨奪胎している様が見て取れます。

また、井上さまが元キリシタンであったという設定は省略され、日本側の仏教的な思想もきちんとスポットを当てて描かれるので、原作よりかなり単純化はされたものの、日本と西洋の対立構造がよりくっきりと明確になっていました。映画というメディアに合わせた的確な省略だと思います。

2つ目が、ロドリゴがついに踏み絵に足をかけるシーン。
原作が発表されたときには、ロドリゴが踏み絵に際して神の声を聞くという場面が大いに物議を醸し、カトリック界隈から大きな非難を浴びました。「神父が踏み絵に屈する」というロドリゴ個人の描写が問題視されたわけではなく、「ロドリゴが踏み絵を踏む前に神の声を聞いている」という神の描き方に問題があったからです。カトリックの考え方からすると、「神は罪を犯した人間を許すことはするが、罪を犯そうとする人の背中を押すようなことは絶対にしない」ので、カトリックの聖職者たちが一斉に異を唱えたわけです。「飛影はそんなこと言わない」の一番スケールでかいバージョンですね。

ただ、私はそういうカトリック界隈のクソめんどくさい議論とは別の部分で、原作のこの描写には不満がありました。
それは神が喋っちゃってることです。だって、この作品は『沈黙』だぜ!?絶望的な神の不在の中で、人は何を信じ、どう行動すべきかを追求すべきなのではないのか?もちろん神の声自体、ロドリゴが極限状態の自問自答の末に作り出した幻聴だと解釈できるのですが、だとしても、そんな幻聴を拠り所にしてロドリゴが後の人生を送るなんて、この作品のテーマを弱めることになりませんかね?
原作の最終盤の一文、「たとえあの人は沈黙したとしていても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」という、素晴らしい表現が、「神の声」によって台無しになってしまうと思うのです。

で、映画化にあたってその部分をどう描いてくれるのかが今回一番気になっていたところでしたが、意外とあっさり神の声がしました。物語前半でロドリゴが幻覚を見ていることと、あまりにもあっさり神の声をインサートしてくることで、「幻聴だった(ていうかロドリゴの深層心理が生み出した声だった)」感は強まっているのですが、やはり主人公が一番重要な決断を下す場面で、自分以外の誰かの声を持ち出してしまっているのが残念でなりません。

ただ、原作に忠実にやったらああならざるを得ないのと、遠藤周作やスコセッシ監督を含めたキリスト教の人間から見るとまた全然違う意味合いを持つものなのかもしれないので、単に私個人の考え方に合わなかった、ということでいいのかもしれません。ラストで棺桶の中に入っていくと実は・・・というカットも本当に素晴らしく、原作における「たとえあの人は沈黙したとしていても~」の文章に匹敵する素晴らしい瞬間を、映像で作り出していました。

スコセッシの原作に対する情熱と、ベテラン作家としての計算高さが融合した傑作だったと思います。いやー、いいもん観た。

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