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【ネタバレしまくりです。ついでに『The Last of Us』の展開にも触れてます】


『ディストピア パンドラの少女』、面白かった!

映画全体の演出としては、思わせぶりに鳴り響くBGMに頼りすぎ(特に前半の密室パート)だと思うが、徐々に明かされる世界設定と、主人公・メラニーのキャラクターで最後まで飽きさせずに見せる見せる。映画鑑賞後に原作小説も読んだが、映像化する上での要素の取捨選択・換骨奪胎も凄まじく上手で驚いた。

とはいえ気になった部分がそこそこあったのも事実。特に感じたのは、バランス感覚に長けた構成になっている反面、「人外キャラのバイオレンスアクション」「延々と続く廃墟を歩く少女」など、監督によってはフェティッシュが炸裂して化けそうな要素も、可もなく不可もなくまとめられてしまい、飛び抜けて印象に残るシーンが少ない点。特に野生の第2世代とメラニーが戦う場面が緊迫感ゼロになってたりとか・・・。

それとは全然別のレイヤーでもう一つ、鑑賞中ずーっと気になったのは『The Last of Us』との類似点。
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PS3で発売された超名作ゲーム、『The Last of Us』の世界設定とあらすじは以下の通り。
・人類に寄生する冬虫夏草により文明が崩壊して数十年経った世界が舞台
・冬虫夏草ゾンビは成長とともに朽ちて、胞子を放出する状態に変異する
・世界を救う可能性を秘めた少女が、庇護者とともに廃墟の街をひたすら進む
・最終的に「少女を解剖して世界を救うべきかどうか」の展開になる

改めて書き出すとすっげー似てる!
『パンドラの少女』の原作は2014年刊行で、その原型となった短編『アウリスのイピゲネイア』は2012年発表。一方の『The Last of Us』は2011年には基本設定を公開している。少なくとも、『アウリスのイピゲネイア』を長編化する際に『The Last of Us』が与えた影響が大きいのでは・・・。


まあ上記の気になった2点は、オタクがちゃちゃ入れてるだけだという自覚もあるのでこのへんでやめておきます。
『パンドラの少女』のスゴい所は、「少女を犠牲に世界を救うべきかどうか」の問いに、予想の斜め上を行く結論を与え、しかも映画を最初から見てきた者にとっては、その結論にものすごく納得感がある、という部分だ。

映画冒頭、メラニーは仲間とともに薄暗い密室に閉じ込められている。ハングリーズが地上の大半を制圧しているものの、この時点ではメラニーを取り巻く世界は完全に人間が支配しており、彼女たちは人間モドキの忌まわしい奇形児として扱われている。
メラニーはここで、ただ一人敬愛する存在であるヘレンから、「パンドラの箱」をはじめとする様々な神話を聞くのを楽しみにしている。そしてまた、恐ろしいモンスターを退治し、ヘレンと二人で幸せに暮らすことを夢想しながら日々を過ごしている。しかし、薄暗い地下に囚われた彼女の生活は「ハングリーズ」の襲撃によって突然破られる。

ハングリーズ襲撃の混乱の中、それまで従順に人間に従っていたメラニーは本能を爆発させ、本来の姿を取り戻し、血の渇望に突き動かされながら地上を駆ける。人間の作った薄暗い穴倉から脱し、第2の出生を果たすのだ。
(ちょっと脱線するが、原作だとこの場面はもっとスゴい。メラニーはこの時点で生体解剖の準備として髪の毛を剃られ、服もすべて脱がされた全裸つるっぱげ状態で解き放たれる。その上で噛み殺したヒトの鮮血を浴びて立ち上がる、まさに「産まれ出でた!」というメタファー全開の痺れるシーンになっている。そのまま映像化したら色んな団体から確実に刺されるので仕方ないと思うけど、もし原作に忠実に映像化してたら最高のシーンになってただろうなー)
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その後のメラニーは、ハングリーズの本能と人間の規範の間で揺れ動く。本能に突き動かされながらも、長い間それが忌むべきことであると教えこまれてきた彼女は、自分がいったい何者なのか、自問自答を続ける。そして遂に、その決定的な瞬間が訪れる。
彼女を閉じ込めてきた薄暗い密室。憎みつつも共に歩んできた人間たち。その象徴たるコールドウェル博士との対話により、メラニーは自分が奇形や偽者などではなく、立派な命をもち自立した存在であることを確信する。この瞬間、物語の主導権は完全に人間(というより“旧人類”)側からメラニー側に移る。「少女を犠牲に世界を救うべきかどうか」ではない。「少女が旧人類の世界を救うかどうか」の話になるのだ。

そしてメラニーは、自分の心に従い、パンドラの箱を開けることを決意する。自分を虐げるモンスター・旧人類を絶滅させ、敬愛するヘレンと平和に暮らすハッピーエンドを実現すること。そのために彼女は、ハングリーズの胞子を世界中に解き放つ。
ラストシーン、研究車輌の中で暮らすことを余儀なくされたヘレンと、それを取り囲む第2世代の子供たちの構図は、旧人類が新世人類を薄暗い密室の中に閉じ込めていた映画冒頭の状況を、完全に裏返したものだ。旧人類の世界は終わり、環境への適応を果たした新生人類の世界が始まるのだ。

それでは、メラニーの開けたパンドラの箱の片隅に残った唯一の希望は、何だったのだろうか?
環境に適応できなかった旧人類は死に絶えるしかない。しかし旧人類の知識と歴史は、ヘレンを通じて第2世代の子供たちに受け継がれ、次の人類の道しるべとして生き続ける。遺伝子は途絶えるが、文化子は新生人類の体に刻まれ、この先も残るのだ。それこそが、旧人類を絶命させた最初の1人であるメラニーと、旧人類最後の1人であるヘレンの共通の希望であろう。
こうして、メラニーとヘレン双方にとって非常に奇妙で危うい形ではあるがハッピーエンドが成立し、物語を閉じる。

いやー、なんとも素敵な、絶妙なオチの付け方だった。ハロー、ニューワールド。
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【ネタバレしまくりです】

『ハクソー・リッジ』、チョーおもしろかった!やっぱりメル・ギブソンは天才だ・・・。

映画冒頭、「TRUE STORY」という文字がババーンと出た後に、藤田嗣治の「アッツ島玉砕」ばりにバッキバキにディフォルメされた戦場(映画的には100点満点の正しさ)が映し出されるので、「よっ、いつものメルギブ!」と期待感は最高潮。そしてその期待は裏切られることなく、最後の最後までメルギブ世界にどっぷり浸かって楽しめた。
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ご存知、「アッツ島玉砕」。本編の戦闘シーンは全部こんな感じ。


第二次大戦が激化する中、デズモンド・ドスは、「絶対に人を殺さない」という決意とともに、衛生兵を希望して陸軍へ入隊する。軍の規律を乱しかねない彼の主張を巡って同じ部隊の仲間や上官とすったもんだがあった後、ドスはようやく衛生兵として認められ、仲間とともに沖縄の激戦区へ。大戦末期の沖縄とは思えないほど栄養状態のよさそうな日本軍が跋扈する戦場で多数の命を救った彼は、ついには仲間のために我が身を犠牲にして大きな傷を負う。最後まで信念を貫いた彼は、助けた人々にリフトアップされ、つかのま天に近づく。そして再び人の世に戻って生きる彼の姿を映し、映画は幕を閉じる。

ラストで宙に吊られる場面は、一時的な仮死を経て再び現世に舞い戻る“復活”の過程と捉えることも、神に選ばれた“携挙”の姿と捉えることもできる。(ドス自身はプロテスタント系だったようだが、メルギブは携挙のイベントを重要視しないカトリックなので、演出的には前者の意図では・・・と予想)
どちらにせよ、人々を救う無償の行為の代償として聖痕を受け、天の国に近づくというキリスト教的モチーフである。ドスが絶対に人を殺さないと決めたのは、実はキリスト教の“汝、殺すことなかれ”の教えとは別にも理由があった・・・という脚本上のツイストはあるものの、このラストが端的に示すとおり、ドスはキリスト教徒の矜持を全うした英雄として描かれる。

と、文字に起こすと非常にキレイにまとまっていそうな話なのだが、実際の映画を観ると印象がまったく違う。映画本編は凄まじい異物感の塊である。
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異物感を生み出す最大の原因が、「殺人」の描写である。
ドスは自らの手で殺人はしないと決意しているが、「殺人を目的とした組織」に協力はする。彼が命を救った仲間たちは、助けた端から他者の命を奪いまくるわけである。ドスがハウエル軍曹を救うシーンでは、ハウエル軍曹はドスに引きずられた状態で追いすがる日本兵をバンバン撃ち殺していく。このシーンを筆頭に、観客が「ドス的にそれでいいんすか?」と思ってしまう状況が劇中に何度も出てくるが、ドスは煩悶するでもなく、「それでも目の前の命を救いたい」と決意を新たにするでもなく、基本的にその矛盾は掘り下げずに物語が進む。

「日本人も2人助けた」というセリフや、地下壕で日本人のケガをケアする場面によって、ドスの行為が敵味方を超えたものであるというエクスキューズは一応つけられている。
が、この映画は戦場で命を救うドスを主人公に据えながら、ドスが救った仲間たちが敵を殺す姿をあまりにも無邪気に描く。特にクライマックス、ドスの勇気に奮い立ったアメリカ軍の仲間たちが、スローモーションで殺しに精を出すシークエンスはさすがに笑ってしまった。
命を救うというドスの信念は、神の力を仲間に与えた―――恐れずに敵を殺す力を!

たしかにクライマックスに向けて映画的なカタルシスを生むためには、ドスの勇気とアメリカ軍の進軍をリンクさせるのは正しい。が、そこをリンクさせて描けば描くほど、ドスの命を救う行為がナンセンスなものに見えてしまうのではないか?彼の行為は、戦況の趨勢とは切り離されたもっとパーソナルなもの、残酷な世界に対して一矢報いようとする1人きりの戦いとして描いたほうが、より輝いたのではないかと思うのだ。


とはいえ、この映画が何でこういう構造になっているかはものすごく明確だ。メルギブ的な世界観では、ドスが神を信じて命を救った行為と、その結果として敵方の日本人が死んでいく展開に倫理的な矛盾はないからだ。
これはメルギブを糾弾する意図はまったくナシで言うが、彼の過去の作品やプライベートの言動を鑑みるに、メルギブはこの映画の日本人を「異教の蛮族」としか思っていないだろう。「バカヤロー!バカヤロー!」と叫びながらマシンガンを連射する日本軍の皆さんの姿はバルバロイ感全開。彼らはキリスト教を信じずに歯向かってくる不正義の存在なので、死んでもしょうがない。この映画における日本人は、人間ではなく、神の力を味方につけたクルセイダーに打ち倒されるべき脅威・悪鬼なのである。


・・・と書いていくと、なんだか私がこの映画の描写に否定的に見えるかもしれないが全くの誤解です。この作品を観ながら「これぞメルギブだ!もっともっと魅せてくれ!」と心の中で何度叫んだことか。逃げ腰のポリコレ対策なんぞクソくらえ、殺意と信仰と勇気と下劣がトグロを巻いてスクリーンに映し出される唯一無二のメルギブ映画の輝きたるや!主人公たちの前に現れ、ひたすら雄叫びとともに攻撃のみを繰り返す日本人の描写は、メルギブの語る残酷絵巻を構成する1要素として見れば、完璧に最適化されて機能していた。

(むしろ、日本の描写に関しては、アメリカ軍が日本軍を指して言う「They are animal!」のセリフが字幕だと「ヤツらは手ごわい」みたいな日本語訳になってたりするのが気になった。「反日映画」的なレッテルを貼られると面倒だという配給会社の意図も分かるけどもさ・・・)

この映画は「真実の物語」という謳い文句で始まるが、それは歴史的な真実という意味ではない。メル・ギブソン的に真実、という意味である。その「真実」は、見方によっては独善的で偏見に満ちた歪な真実かもしれない。しかし天才的な演出に裏打ちされた緩急自在の展開に圧倒され、観客は上映中ひたすらメルギブの言い分に耳を傾けるしかない。そこでは異物感すら味わい深い。これほどの求心力で、自らの魂の叫びを具現化し、観客を巻き込める監督はそうそういないと思う。
これからも独善的で、俺サマで、残虐で楽しい映画を撮り続けてほしいと心から願う。



※ハクソー・リッジの断崖絶壁、さすがにあんな立地を大部隊が登るわけねえだろ!怪我人をロープで下ろせるわけねえだろ!と思って検索してみたら実際のスケールはこんな感じだった。
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左:実物   右:映画

これだよこれ!このハッタリ感こそメルギブ映画!
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【ネタバレしまくりです】

『沈黙‐サイレンス‐』すごかったー!
冒頭から、広い空間がほとんど描かれず、カメラも忍び足のような速度でしか動かず、登場人物の動きを抑制しまくった演出(1カットで手を動かすとか顔を動かすとか、小さな動作を1つ2つするだけ)が生み出さす凄まじい閉塞感に緊迫しっぱなし。引き絵のシーンでも徹底された農民の手や肌の汚れなど、リアリティある絵作りのおかげで、日本の時代劇にある「ごっこ遊び」的な安心感がまったくなかったのも素晴らしかったです。

そんなわけで1本の映画としてもバッチリ楽しめたのですが、細かい部分から全体構成まで、「小説の映像化」という意味でも物凄く楽しめたので、今回はそのへんについてまとめます。

まずは細かい部分をつらつらと。

・原作だとパードレたちが日本語を喋る(彼らは知識層なので、布教先の異言語を勉強してる)部分を、映画では日本人側がカタコトの英語を話すようにガッツリ変更。よくよく時代背景を考えると江戸時代の極貧農民が英語喋れる時点でおかしいんだけど、「まあ世界の誰でもちょっとは英語を話せるよね」って状況に生きる現代人から見ると、この方式が一番違和感が少ないし、世界配給を考えても正しい判断だと思う。(ていうかそもそもポルトガル人が英語喋ってるのは忘れよう)

・原作だと陽気に振る舞っていたガルペを気難しい性格にし、一方で主人公ロドリゴを楽天的な性格に変更。そのうえ愛くるしい顔立ちのアンドリュー・ガーフィールドが終始困り顔でロドリゴを演じるとあれば、「宗教的使命感により蛮地に飛び込む聖職者」という馴染みの無さすぎる境遇の主人公にもついつい感情移入してしまうというものだ。

・原作だと割とサラリと出てきて消えるモキチのキャラクターを膨らませ、「苦しむ日本キリシタン」をハッキリと可視化。モキチたちの苦難を傍観するしかない立場として、われわれ観客と主人公ロドリゴの同一化を図る。塚本晋也のドハマりっぷりもあり、モキチの役はとてもよく機能していたと思う。

・原作でイエスの姿としてロドリゴが思い浮かべていた「ポルゴ・サンセポルクロ」の絵画を変更し、だいぶ沈黙してそうな顔つきのイエスに。これは本当にイイ判断だったと思う。だってポルゴ・サンセポルクロの絵のキリスト、強そうすぎるもん。あ、映画に出てきたキリストの絵って、なんか有名な宗教画なんですかね?詳細求む。
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問題のポルゴ・サンセポルクロの絵。異教徒を物理で殴って改宗させそうなイエスさま。


・原作では「弱者の象徴」としての役割の比重が高かったキチジロー。映画では、ロドリゴが日本上陸時から神に抱く「疑念の影」として付かず離れず周囲につきまとう役割も果たしたため、ロドリゴの不安と迷いを要所要所で可視化する。うまい!


細かい部分は書き始めるときりがないのでこの辺にして、全体の構成について思ったことを2つほど書きます。

まず1つ目は、作品のサブテーマについて。
原作で重要なテーマの1つだった「日本人の精神には神は定着しない」という日本人だけに響くドメスティックな問題提起を弱め、「キリスト教的世界観を唯一絶対の真理として異文化を塗りつぶす西洋側の考え方も驕りではないか?」という問いかけに比重を移しています。西洋の驕りを指摘する発言は、原作小説でも日本人側の言い分として出てくる部分なので、ここをきちんと拾って作品テーマに盛り込むあたり、スコセッシ監督が原作にとことん誠実に向き合って換骨奪胎している様が見て取れます。

また、井上さまが元キリシタンであったという設定は省略され、日本側の仏教的な思想もきちんとスポットを当てて描かれるので、原作よりかなり単純化はされたものの、日本と西洋の対立構造がよりくっきりと明確になっていました。映画というメディアに合わせた的確な省略だと思います。

2つ目が、ロドリゴがついに踏み絵に足をかけるシーン。
原作が発表されたときには、ロドリゴが踏み絵に際して神の声を聞くという場面が大いに物議を醸し、カトリック界隈から大きな非難を浴びました。「神父が踏み絵に屈する」というロドリゴ個人の描写が問題視されたわけではなく、「ロドリゴが踏み絵を踏む前に神の声を聞いている」という神の描き方に問題があったからです。カトリックの考え方からすると、「神は罪を犯した人間を許すことはするが、罪を犯そうとする人の背中を押すようなことは絶対にしない」ので、カトリックの聖職者たちが一斉に異を唱えたわけです。「飛影はそんなこと言わない」の一番スケールでかいバージョンですね。

ただ、私はそういうカトリック界隈のクソめんどくさい議論とは別の部分で、原作のこの描写には不満がありました。
それは神が喋っちゃってることです。だって、この作品は『沈黙』だぜ!?絶望的な神の不在の中で、人は何を信じ、どう行動すべきかを追求すべきなのではないのか?もちろん神の声自体、ロドリゴが極限状態の自問自答の末に作り出した幻聴だと解釈できるのですが、だとしても、そんな幻聴を拠り所にしてロドリゴが後の人生を送るなんて、この作品のテーマを弱めることになりませんかね?
原作の最終盤の一文、「たとえあの人は沈黙したとしていても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」という、素晴らしい表現が、「神の声」によって台無しになってしまうと思うのです。

で、映画化にあたってその部分をどう描いてくれるのかが今回一番気になっていたところでしたが、意外とあっさり神の声がしました。物語前半でロドリゴが幻覚を見ていることと、あまりにもあっさり神の声をインサートしてくることで、「幻聴だった(ていうかロドリゴの深層心理が生み出した声だった)」感は強まっているのですが、やはり主人公が一番重要な決断を下す場面で、自分以外の誰かの声を持ち出してしまっているのが残念でなりません。

ただ、原作に忠実にやったらああならざるを得ないのと、遠藤周作やスコセッシ監督を含めたキリスト教の人間から見るとまた全然違う意味合いを持つものなのかもしれないので、単に私個人の考え方に合わなかった、ということでいいのかもしれません。ラストで棺桶の中に入っていくと実は・・・というカットも本当に素晴らしく、原作における「たとえあの人は沈黙したとしていても~」の文章に匹敵する素晴らしい瞬間を、映像で作り出していました。

スコセッシの原作に対する情熱と、ベテラン作家としての計算高さが融合した傑作だったと思います。いやー、いいもん観た。
 

昨日、以下の件が軽く炎上してました。

≪日経ビジネスオンライン≫「マーベル新作、“マント人気”で大台ヒット狙う 「ドクター・ストレンジ」全体マーケティング統括担当、ディズニー・ジャパン井原多美氏に聞く」 記事はこれ→ (Click!) 

「女性とのロマンスがしっかりと描かれていて、女性も映画の世界にすっと入り込んでいける。女性にラブ要素は欠かせないですからね」という雑きわまりないプロモーション戦略の説明が総スカンをくらい、炎上。私も『マッドマックス 怒りのデス・ロード』や『10 クローバーフィールド・レーン』等、「俺は普通に映画を観たいだけなのに何でこんな仕打ちを受けなきゃならんのだ」とたびたび不満を感じつつ映画に接しているので、この件も「あー語り口がムカつくー」と思いつつ横目で見ておりました。

が、その後にTwitterユーザーの間で行われた、あるアンケート結果の拡散のされ方がちょっとあやういので、余計なお世話は百も承知で、その解釈について書きます。(Twitterのほうに書こうかとも思ったのですが、Twitterではできる限り非生産的な話だけしていたいのでこっちに書きます)


で、ある方が行ったアンケートとその結果がこちらです。
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「女性は恋愛要素があれば映画を観に行く」的なステレオタイプな言説に検証を入れてみよう、といった趣旨でしょうか。20,000人近い方が回答しています。すごい!
アンケートを行った方ご自身はこのアンケートにバイアスがかかることを認識しておりまして、だからこそアンケート後の結果もパーセンテージではなく回答者の「実数」でまとめ報告をされていたようなのですが、アンケート結果のみを目にしたと思しき一部の方々が、そのへんのバイアスをあまり考慮せず「女性の大半が恋愛要素を不要と考えている」という解釈で拡散してしまっているのを目にしました。それはかなり危険なことなので、ちょっと指摘させてください。

まずこのアンケートは、ツイート主ご自身が言及していたとおり回答者の傾向に相当なバイアスがかかったものなので、世間一般に割り戻しはできない数字であるということを踏まえなければなりません。そもそもが、いわゆる「映画クラスタ」の方から発信され、映画クラスタを起爆剤に拡散されたアンケートです。異常な「恋愛推し」を含む日本版予告の問題点について、常々問題意識を持っている人が初動を担っています。
さらに、このアンケートは「自由参加」です。RTを目にした人全員が回答を強制されるものではありません。なので、モチベーションの観点から、日本版予告について問題意識をもっている人ほど自発的に回答することになり、問題意識を持っている人たちの間でこそ積極的にRTされていきます。拡散とともに分母は増えていきますが、このバイアスが常にかかり続けるため、2,000を超えるRTがあったとしても、おそらく回答者の大半は映画クラスタ近辺のアカウントである可能性が非常に高いです。20,000人近くが回答したからデータ数が十分で、結果が正しいということではないのです。

また、このアンケートは、大元のツイート自体は恣意的な表現を含まないように非常によく考えられた、公平な文言になっています。が、いざそれをRTする人は、RT前後に自分の主張を併記できるため、回答者同士の意見の独立性が担保できない点も指摘しておきます(このアンケートが行われた時間帯に、ちょうど映画クラスタのTLをディズニーバッシング旋風が通過していたことも考慮すべきかと)。

 
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もう一つ、このアンケートの結果から「洋画宣伝において恋愛要素のアピールは無駄」という結論を読み取っている方が多くいたのですが、それは性急です。ていうか一番極端な例だと、「恋愛推しの予告を作っても17%しか客が増えないことが示されたな」というツイートもありました。これはもう、ぜんぜん違います。
(※ここから先の計算は、厳密性より説明の簡略化を優先するため端数全部切り捨てます)

そもそも、その考え方をするなら、回答者のうち12%は結果に寄与しない男性票なので除外し、女性票のみを分母として割り戻すと、女性100%のうち19%が「恋愛要素が映画を観ようと思うきっかけになる」、81%が「ならない」集団になります。
で、分母81になるはずのところ19増えるのだから19÷81で増加率は23%、と計算するべきです。・・・が、そもそもこの考え方自体が間違いなのです。

この論法の根本的な間違いは、「恋愛要素は映画を観に行くきっかけにならない」と答えた81%の人を、「恋愛要素がなくても映画を観に行く人」と誤読してしまっていることによります。が、この81%の人たちは、あくまで「恋愛要素に反応しない人」であり、ある映画を観に行くことが確定している人では全然ありません。
この81%の人は一枚岩ではなく、各人が映画の中の何に興味を持つのかは、もっともっと細分化されます。ある人は海外俳優A氏に興味があるかも。ある人はサスペンス映画なら興味があるかも。ある人は爽快なアクションなら興味があるかも。などなど・・・。
だから、恋愛要素のない作品の予告を観ても、「恋愛要素には興味なし」と回答した81%全員が観に行くなんてことはありえません。実際にその作品を観に行きたいと感じる潜在顧客は30%かもしれないし、20%かもしれないし、5%かもしれないのです。

で、そう考えると、19%の人の「観に行きたい」スイッチを入れる恋愛要素って、何気にすごくないですかね・・・?
前段で説明した通り、かなりのバイアスがかかったであろう今回のアンケートですら19%の女性が恋愛要素に反応するという結果なのですから、世間一般での傾向を考えれば、恋愛要素のパワーはさらに高いものになると思われます。
なので、私はこのアンケートの結果を観て、「あっ、この条件下でも19%も恋愛要素に反応するという回答があったのか!?」と、拡散傾向とまったく逆の感想を持ちました。


これらを踏まえて考えると、映画プロモーションが馬鹿の一つ覚えみたいに「恋愛!家族愛!人類愛!」みたいなラブ念仏を唱えまくっているのも、それなりに勝算があるということが分かるかと思います。とはいえ、私は本稿をもって「オラァ!だから配給会社様は正しいんだぞお前ら!!!」と言いたいわけでも、「女ってホント恋愛好きな~!ホント好きな~!(地獄のミサワ顔で)」と言いたいわけでもありません。私も映画業界のラブ念仏を聞くたびに「アタマ沸いてんじゃねえのかコイツら」と思ってます。

が、今回のようなアンケート結果が誤読されたまま広まってしまうのは、ある偏見を打ち消す代わりに別の偏見を強めているだけです。そして、間違った根拠を武器に配給会社に異を唱えても、それでは何も変わらないのです。自分のもっている武器が正しいのかきちんと吟味し、相手が拠り所にする根拠も把握し、そのうえで殴りかかってこそ、建設的な議論になるはずです。

さて、誤読によって少しおかしな拡散はしているものの、今回のアンケート自体は物凄く意義のあるデータをもたらしています。それは、たかだか数時間で行われたアンケートに、実に1万4千人の女性が「恋愛要素とか別に求めてねーから」と回答した事です。そういう強固な客層がガッツリいるんだぞ、ってことを改めて明確にしたという点で、このアンケートは配給会社に対するお客側の意思を示したデータとして、有用な使われ方ができるのじゃないかなあ、と思います。

真面目な話はこのへんで。そろそろクソツイートマンに戻ります。

(大事な追記 : 記事の中で使っていた「母数」の表現は誤用で「分母」とすべき、とご指摘を受け、その部分を慌てて直しました。今までずーっと間違いに気づかず使い続けてました・・・。ああ、恥ずかしい)