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【ネタバレしまくりです】

『沈黙‐サイレンス‐』すごかったー!
冒頭から、広い空間がほとんど描かれず、カメラも忍び足のような速度でしか動かず、登場人物の動きを抑制しまくった演出(1カットで手を動かすとか顔を動かすとか、小さな動作を1つ2つするだけ)が生み出さす凄まじい閉塞感に緊迫しっぱなし。引き絵のシーンでも徹底された農民の手や肌の汚れなど、リアリティある絵作りのおかげで、日本の時代劇にある「ごっこ遊び」的な安心感がまったくなかったのも素晴らしかったです。

そんなわけで1本の映画としてもバッチリ楽しめたのですが、細かい部分から全体構成まで、「小説の映像化」という意味でも物凄く楽しめたので、今回はそのへんについてまとめます。

まずは細かい部分をつらつらと。

・原作だとパードレたちが日本語を喋る(彼らは知識層なので、布教先の異言語を勉強してるし喋れる)部分を、映画では日本人側がカタコトの英語を話すようにガッツリ変更。よくよく時代背景を考えると江戸時代の極貧農民が英語喋れる時点でおかしいんだけど、「まあ世界の誰でもちょっとは英語を話せるよね」って状況に生きる現代人から見ると、この方式が一番違和感が少ないし、世界配給を考えても正しい判断だと思う。(ていうかそもそもポルトガル人が英語喋ってるのは忘れよう)

・原作だと陽気に振る舞っていたガルペを気難しい性格にし、一方で主人公ロドリゴを楽天的な性格に変更。そのうえ愛くるしい顔立ちのアンドリュー・ガーフィールドが終始困り顔でロドリゴを演じるとあれば、「宗教的使命感により決死の覚悟で蛮地に飛び込む聖職者」という馴染みの無さすぎる境遇の主人公にもついつい感情移入してしまうというものだ。

・原作だと割とサラリと出てきて消えるモキチのキャラクターを膨らませ、「苦しむ日本キリシタン」をハッキリと可視化。モキチたちの苦難を傍観するしかない立場として、われわれ観客と主人公ロドリゴの同一化を図る。塚本晋也のドハマりっぷりもあり、モキチの役はとてもよく機能していたと思う。

・原作でイエスの姿としてロドリゴが思い浮かべていた「ポルゴ・サンセポルクロ」の絵画を変更し、だいぶ沈黙してそうな顔つきのイエスに。これは本当にイイ判断だったと思う。だってポルゴ・サンセポルクロの絵のキリスト、強そうすぎるもん。あ、映画に出てきたキリストの絵って、なんか有名な宗教画なんですかね?詳細求む。
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問題のポルゴ・サンセポルクロの絵。異教徒を物理で殴って改宗させそうなイエスさま。


・原作では「弱い人間の象徴」としての役割の比重が高かったキチジロー。映画では、ロドリゴが日本上陸時から神に抱く「疑念の影」として付かず離れず周囲につきまとう役割も果たしたため、ロドリゴの不安と迷いを要所要所で可視化する。うまい!


細かい部分は書き始めるときりがないのでこの辺にして、全体の構成について思ったことを2つほど書きます。

まず1つ目は、作品のサブテーマについて。
原作で重要なテーマの1つだった「日本人の精神には神は定着しない」という日本人だけに響くドメスティックな問題提起を弱め、「キリスト教的世界観を唯一絶対の真理として異文化を塗りつぶそうとする西洋側の考え方も驕りではないか?」という問いかけに比重を移しています。西洋の驕りを指摘する発言は、原作小説でも日本人側の言い分として出てくる部分なので、ここをきちんと拾って作品テーマに盛り込むあたり、スコセッシ監督が原作にとことん誠実に向き合って換骨奪胎している様が見て取れます。

また、井上さまが元キリシタンであったという設定は省略され、日本側の仏教的な思想もきちんとスポットを当てて描かれるので、原作よりかなり単純化はされたものの、日本と西洋の対立構造がよりくっきりと明確になっていました。映画というメディアに合わせた的確な省略だと思います。

2つ目が、ロドリゴがついに踏み絵に足をかけるシーン。
原作が発表されたときには、ロドリゴが踏み絵に際して神の声を聞くという場面が大いに物議を醸し、カトリック界隈から大きな非難を浴びました。「神父が踏み絵に屈する」というロドリゴ個人の描写が問題視されたわけではなく、「ロドリゴが踏み絵を踏む前に神の声を聞いている」という神の描き方に問題があったからです。カトリックの考え方からすると、「神は罪を犯した人間を許すことはするが、罪を犯そうとする人の背中を押すようなことは絶対にしない」ので、カトリックの聖職者たちが一斉に異を唱えたわけです。「飛影はそんなこと言わない」の一番スケールでかいバージョンですね。

ただ、私はそういうカトリック界隈のクソめんどくさい議論とは別の部分で、原作のこの描写には不満がありました。
それは神が喋っちゃってることです。だって、この作品は『沈黙』だぜ!?絶望的な神の不在の中で、人は何を信じ、どう行動すべきかを追求すべきなのではないのか?もちろん神の声自体、ロドリゴが極限状態の自問自答の末に作り出した幻聴だと解釈できるのですが、だとしても、そんな幻聴を拠り所にしてロドリゴが後の人生を送るなんて、この作品のテーマを弱めることになりませんかね?
原作の最終盤の一文、「たとえあの人は沈黙したとしていても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」という、素晴らしい表現が、「神の声」によって台無しになってしまうと思うのです。

で、映画化にあたってその部分をどう描いてくれるのかが今回一番気になっていたところでしたが、意外とあっさり神の声がしました。物語前半でロドリゴが幻覚を見ていることと、あまりにもあっさり神の声をインサートしてくることで、「幻聴だった(ていうかロドリゴの深層心理が生み出した声だった)」感は強まっているのですが、やはり主人公が一番重要な決断を下す場面で、自分以外の誰かの声を持ち出してしまっているのが残念でなりません。

ただ、原作に忠実にやったらああならざるを得ないのと、遠藤周作やスコセッシ監督を含めたキリスト教の人間から見るとまた全然違う意味合いを持つものなのかもしれないので、単に私個人の考え方に合わなかった、ということでいいのかもしれません。ラストで棺桶の中に入っていくと実は・・・というカットも本当に素晴らしく、原作における「たとえあの人は沈黙したとしていても~」の文章に匹敵する素晴らしい瞬間を、映像で作り出していました。

スコセッシの原作に対する情熱と、ベテラン作家としての計算高さが融合した傑作だったと思います。いやー、いいもん観た。
 

昨日、以下の件が軽く炎上してました。

≪日経ビジネスオンライン≫「マーベル新作、“マント人気”で大台ヒット狙う 「ドクター・ストレンジ」全体マーケティング統括担当、ディズニー・ジャパン井原多美氏に聞く」 記事はこれ→ (Click!) 

「女性とのロマンスがしっかりと描かれていて、女性も映画の世界にすっと入り込んでいける。女性にラブ要素は欠かせないですからね」という雑きわまりないプロモーション戦略の説明が総スカンをくらい、炎上。私も『マッドマックス 怒りのデス・ロード』や『10 クローバーフィールド・レーン』等、「俺は普通に映画を観たいだけなのに何でこんな仕打ちを受けなきゃならんのだ」とたびたび不満を感じつつ映画に接しているので、この件も「あー語り口がムカつくー」と思いつつ横目で見ておりました。

が、その後にTwitterユーザーの間で行われた、あるアンケート結果の拡散のされ方がちょっとあやういので、余計なお世話は百も承知で、その解釈について書きます。(Twitterのほうに書こうかとも思ったのですが、Twitterではできる限り非生産的な話だけしていたいのでこっちに書きます)


で、ある方が行ったアンケートとその結果がこちらです。
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「女性は恋愛要素があれば映画を観に行く」的なステレオタイプな言説に検証を入れてみよう、といった趣旨でしょうか。20,000人近い方が回答しています。すごい!
アンケートを行った方ご自身はこのアンケートにバイアスがかかることを認識しておりまして、だからこそアンケート後の結果もパーセンテージではなく回答者の「実数」でまとめ報告をされていたようなのですが、アンケート結果のみを目にしたと思しき一部の方々が、そのへんのバイアスをあまり考慮せず「女性の大半が恋愛要素を不要と考えている」という解釈で拡散してしまっているのを目にしました。それはかなり危険なことなので、ちょっと指摘させてください。

まずこのアンケートは、ツイート主ご自身が言及していたとおり回答者の傾向に相当なバイアスがかかったものなので、世間一般に割り戻しはできない数字であるということを踏まえなければなりません。そもそもが、いわゆる「映画クラスタ」の方から発信され、映画クラスタを起爆剤に拡散されたアンケートです。異常な「恋愛推し」を含む日本版予告の問題点について、常々問題意識を持っている人が初動を担っています。
さらに、このアンケートは「自由参加」です。RTを目にした人全員が回答を強制されるものではありません。なので、モチベーションの観点から、日本版予告について問題意識をもっている人ほど自発的に回答することになり、問題意識を持っている人たちの間でこそ積極的にRTされていきます。拡散とともに分母は増えていきますが、このバイアスが常にかかり続けるため、2,000を超えるRTがあったとしても、おそらく回答者の大半は映画クラスタ近辺のアカウントである可能性が非常に高いです。20,000人近くが回答したからデータ数が十分で、結果が正しいということではないのです。

また、このアンケートは、大元のツイート自体は恣意的な表現を含まないように非常によく考えられた、公平な文言になっています。が、いざそれをRTする人は、RT前後に自分の主張を併記できるため、回答者同士の意見の独立性が担保できない点も指摘しておきます(このアンケートが行われた時間帯に、ちょうど映画クラスタのTLをディズニーバッシング旋風が通過していたことも考慮すべきかと)。

 
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もう一つ、このアンケートの結果から「洋画宣伝において恋愛要素のアピールは無駄」という結論を読み取っている方が多くいたのですが、それは性急です。ていうか一番極端な例だと、「恋愛推しの予告を作っても17%しか客が増えないことが示されたな」というツイートもありました。これはもう、ぜんぜん違います。
(※ここから先の計算は、厳密性より説明の簡略化を優先するため端数全部切り捨てます)

そもそも、その考え方をするなら、回答者のうち12%は結果に寄与しない男性票なので除外し、女性票のみを分母として割り戻すと、女性100%のうち19%が「恋愛要素が映画を観ようと思うきっかけになる」、81%が「ならない」集団になります。
で、分母81になるはずのところ19増えるのだから19÷81で増加率は23%、と計算するべきです。・・・が、そもそもこの考え方自体が間違いなのです。

この論法の根本的な間違いは、「恋愛要素が映画を観ようと思うきっかけにならない」と答えた81%の人を、「恋愛要素がなくても映画を観に行く人」と誤読してしまっていることによります。が、この81%の人たちは、あくまで「恋愛要素に反応しない人」であり、ある映画を観に行くことが確定している人では全然ありません。
この81%の人は一枚岩ではなく、各人が映画の中の何に興味を持つのかは、もっともっと細分化されます。ある人は海外俳優A氏に興味があるかも。ある人はサスペンス映画なら興味があるかも。ある人は爽快なアクションなら興味があるかも。などなど・・・。
だから、恋愛要素のない作品の予告を観ても、「恋愛要素には興味なし」と回答した81%全員が観に行くなんてことはありえません。実際にその作品を観に行きたいと感じる潜在顧客は30%かもしれないし、20%かもしれないし、5%かもしれないのです。

で、そう考えると、19%の人の「観に行きたい」スイッチを入れる恋愛要素って、何気にすごくないですかね・・・?
前段で説明した通り、かなりのバイアスがかかったであろう今回のアンケートですら19%の女性が恋愛要素に反応するという結果なのですから、世間一般での傾向を考えれば、恋愛要素のパワーはさらに高いものになると思われます。
なので、私はこのアンケートの結果を観て、「あっ、この条件下でも19%も恋愛要素に反応するという回答があったのか!?」と、拡散傾向とまったく逆の感想を持ちました。


これらを踏まえて考えると、映画プロモーションが馬鹿の一つ覚えみたいに「恋愛!家族愛!人類愛!」みたいなラブ念仏を唱えまくっているのも、それなりに勝算があるということが分かるかと思います。とはいえ、私は本稿をもって「オラァ!だから配給会社様は正しいんだぞお前ら!!!」と言いたいわけでも、「女ってホント恋愛好きな~!ホント好きな~!(地獄のミサワ顔で)」と言いたいわけでもありません。私も映画業界のラブ念仏を聞くたびに「アタマ沸いてんじゃねえのかコイツら」と思ってます。

が、今回のようなアンケート結果が誤読されたまま広まってしまうのは、ある偏見を打ち消す代わりに別の偏見を強めているだけです。そして、間違った根拠を武器に配給会社に異を唱えても、それでは何も変わらないのです。自分のもっている武器が正しいのかきちんと吟味し、相手が拠り所にする根拠も把握し、そのうえで殴りかかってこそ、建設的な議論になるはずです。

さて、誤読によって少しおかしな拡散はしているものの、今回のアンケート自体は物凄く意義のあるデータをもたらしています。それは、たかだか数時間で行われたアンケートに、実に1万4千人の女性が「恋愛要素とか別に求めてねーから」と回答した事です。そういう強固な客層がガッツリいるんだぞ、ってことを改めて明確にしたという点で、このアンケートは配給会社に対するお客側の意思を示したデータとして、有用な使われ方ができるのじゃないかなあ、と思います。

真面目な話はこのへんで。そろそろクソツイートマンに戻ります。

(大事な追記 : 記事の中で使っていた「母数」の表現は誤用で「分母」とすべき、とご指摘を受け、その部分を慌てて直しました。今までずーっと間違いに気づかず使い続けてました・・・。ああ、恥ずかしい)

 
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<※ここだけネタバレなしです>
 『シン・ゴジラ』を観る前にこのページに来た方へ。この映画は、事前情報を何も入れずに観たほうが絶対にいい。なので、ネタバレに触れる前に早く劇場に行こう。すでに観た人からさまざまな評判が出始めているが、他人の評価を気にしすぎる必要はない。

 そもそも、本職の映画評論家はさておき、私も含めてネットで映画の感想を書いている素人にとって、映画は美点を挙げるより欠点を挙げるほうが圧倒的にラクである。観ていて違和感を感じた部分を指摘すればいいからだ。一方で、巧みに描写された部分に対しては、我々は往々にしてそれが巧みであったことに気づきすらせず通り過ぎてしまう。だからついつい長所よりも短所のほうを多くならべ挙げてしまうし、「どこが整っていたか」よりも「どこが歪んでいたか」のほうが具体的に言語化しやすい。
 『シン・ゴジラ』はかなり奇形な映画なので、イビツな点を特に指摘しやすい。本稿の後半で、私もこの映画に対してたくさん文句をつけているが、それとは別に、私が明確に言語化できていないすばらしい部分もたくさんある。あなた自身の感覚ですばらしい部分を発見するためにも、ぜひ劇場へ足を運んでほしいと思う。さあ、今すぐブラウザを立ち上げてチケットを取ろう!(ステマ)







<※ここからネタバレあり>
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 ここからはネタバレ込みで『シン・ゴジラ』の感想。
 映画トータルとしては不満な点がたくさんあるのだが、私はあるひとつの理由だけで、『シン・ゴジラ』は劇場で観る価値があったと思っている。それは、この映画が初代ゴジラ以来の、「ゴジラと観客とのファースト・コンタクト」を体験させてくれる作品だったからだ。

 我々にとって、ゴジラはもはや想像の範疇に収まるお馴染みのキャラクターになっている。しかし初代ゴジラはそうではなかった。なにせ、当時の観客は誰もゴジラというキャラクターと、その能力を知らなかったのだ。「見たこともない巨大な生物が出現する」「その生物は我々の予想を超えた破壊能力を有していた」という展開は、絶大なインパクトで観客を驚かせたはずだ。

 『シン・ゴジラ』に出てくるゴジラは、これまでの基準に照らし合わせれば、ゴジラと呼んでいいかどうかすらギリギリのレベルだ。しかし、本作のゴジラ初上陸シーンで、見たこともないおぞましい何かが画面に映る瞬間の驚愕や、東京大破壊のシーンでたかが大トカゲ1匹が本当の悪夢になる瞬間の絶望感こそ、60年前の観客が初代ゴジラを初めて見たときに感じた、未知の怪物に対する新鮮な衝撃と同じものだろう。
 54年の映画『ゴジラ』をお手本に、ゴジラというキャラクターを現代に再生させるにあたり『シン・ゴジラ』が選んだのは、ゴジラの姿かたちや設定を初代に似せて再現することではなかった。この映画は、60年前の人々が初めてゴジラを観たときの「なんだこのバケモノは!」という驚きの感情を忠実に再現してみせたのだ。
 本作のゴジラは、我々がこれまでに観てきたどんなゴジラとも違う。だからこそ逆説的に、“人知を圧倒する、見たこともない異形”という、初代ゴジラが持っていたキャラクターの本質をもっとも忠実に具現化している。

 本作のゴジラは、かろうじて我々の知るゴジラの形状を留めているが、劇中で語られるように、あの姿から羽を生やすかもしれないし、双頭や三つ首のバケモノになるかもしれない。「ゴジラかくあるべし」と先入観と固定観念に縛られたオールドファンを嘲笑うかのようなゴジラ描写はすばらしく痛快だ。公開前に『シン・ゴジラ』のビジュアルを観て、「やっぱりゴジラは直立歩行で人類を睥睨するあの姿勢に意味があるよね~」などと、代わり映えのしない議論に終始していた我々ゴジラオタクの背後で、「ゴジラの本質は“人知を圧倒する異形”である。姿かたちや設定は重要ではない」という、1歩も2歩も先を行く結論を突きつける映画が作られていたのだ。本当に恐れ入りました。

 ということで、『シン・ゴジラ』は、これまで積み上げてきたゴジラのキャラクターを放棄してまで、より本質的な部分で『ゴジラ』1作目の再現を果たした、作り手の勇気と志にあふれた映画だ。過去28作を経て、親しみ深い対象になっていたゴジラが、未知のバケモノに変わる瞬間。ゴジラファンとして、この貴重なファースト・コンタクトの感覚を体験できただけでも、『シン・ゴジラ』を劇場で観る価値があったと私は思っている。

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 次に、この映画を形成する重要な要素、VFXについても触れておきたい。
 私は日本の怪獣映画が大好きだが、いわゆる“特撮”は、目的ではなく手段であるべきだと思っている(ここでいう“特撮”は、着ぐるみ+ミニチュアによる狭義の意味での特撮)。着ぐるみでの撮影に盲目的にこだわるのはまったくのナンセンスで、迫真性をもって怪獣を描けるなら、着ぐるみでもギニョールでもCGでもミニチュアでも実景合成でも、最適な方法を選んでくれという考えだ。
 今回、ついに着ぐるみという楔から完全に解き放たれたゴジラがどう描かれるのか期待していたのだが、その部分はちょっと肩透かしという感じだった。ゴジラはだいたいビルの向こうにいるか遠景空撮の街中にいるかで、非現実の存在が現実の「今、ここ」とインタラクションを果たすという映画的快感に乏しい。「これこれ!こういうのが観たかったんだよ!」というシーンは要所要所にしっかりあるものの、大半の描写は昔ながらの怪獣演出をCGで踏襲する形であり、なおかつCG表現としてもゴジラ自体の質感や動きは相当に厳しかった。このVFXクオリティの限界が、せっかく“人知を圧倒する異形”として蘇ったゴジラの迫真性を減じていたのは非常に残念なところだ。
(とはいえ日本の映画制作費で言えば、このへんが限界点なのかも・・・がく)

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 さて、続いて映画全体の構成について。
 この映画には致命的な欠点があると思っている。現場の人々の痛みを描いていないところだ。
群像劇ではあるものの、主要メンバーは全員、会議室の中にいる背広組と、階級の高い制服組である。最前線で被害をこうむっている市井の人々や、対策プランを命がけで実行する現場スタッフは、1、2シーンを除いて数字として扱われるのみ。この国でもっとも死と隣り合わせになっている人たちをパーツとして描かずに、「国中みんなで頑張れば乗り越えられる!」というテーマを語るのはさすがに無理があるのではないか。劇中で「スクラップ&ビルドで日本は成長してきた」と語られるが、なまじ3.11を経て「スクラップ」の一言では片付かない被災者の苦難を知っているからこそ、スクラップの対価をボカしたまま背広組によるビルドの尊さを説くのは欺瞞だと思うのだ。

 作品テーマに根差した理由の他にもう1つ、現場の痛みを描くべきだったと私が思う理由がある。この映画は全編に渡り「叙事を積み重ねて興奮を作り出す」という演出方針で作られているので、演出上の打算的な観点からも、最前線の人間の描写を挟み込めばその狙いをさらに達成できたはずだからだ。
 その点で、主人公の矢口チームにも、安全な会議室から出て、市井の人々とともに死に向き合う試練が与えられるべきだったろう。東京脱出の際に圧倒的なゴジラ災害に巻き込まれ、チームの誰かを喪失するシーンを具体的に描けば、苦難にさらされる人々と矢口チームは同一化を果たすことができたし、再集結したチームが団結する流れもさらにハッキリ作れたはずだ(この映画のテンポならマジで2分ぐらいで描けると思う)。

 この「現場の人々を描いていない」ことの問題点は、ヤシオリ作戦のシーンで特に顕著になる。主人公・矢口が「現場」の力を称賛する割に、実行部隊の人間は顔の見えない無名のモブでしかないので、「官・民 & 在日米軍志願者が1つになってゴジラに挑む」という最高に燃えるはずの構造がくっきり浮き上がらない。東京消滅を防ぐため、虫けらのように死のうともゴジラに立ち向かう、現場のプロフェッショナルたちが人間として描かれないため、「小さな人間たちの勇気がゴジラを止めた」ではなく、「矢口の巧みな政治手腕がゴジラを止めた」になってしまっている。作戦実行部隊の肖像を数シーンだけでも足せば、もっと誠実に作品テーマに向き合い、なおかつ作劇上も興奮を上乗せできる内容になっただろう。
(作戦開始前に、ヤシオリ作戦の現場スタッフが矢口に対して「なーに、死んでも東京は守ってみせますよ!」と笑顔で見栄を切るシーンとかが10秒ぐらいあるだけで、第1部隊が全滅した後で矢口が無念の想いで目を閉じる瞬間がもっと強いシーンになったと思う)

 そのほかにもこの映画には欠けている描写がたくさんある。特に気になった部分を3つほど挙げてみる。

■ヤシオリ作戦、「数十種類つくった凝固剤の1つでポジティブな結果が出た」とセリフだけで説明され、いつの間にか人間側の最後の希望みたいになってしまうが、観客にしてみたらそこまで決定的な作戦という印象をもてない(この映画は特にセリフが多いため、その他大量の情報の中に埋没してしまう)。例えばゴジラの肉片サンプルに凝固剤を投与すると一瞬で活動が停止して「これならいけるぞ・・・!」と主人公たちが確信する場面など、視覚的に観客を納得させるシーンがあれば、作戦の存在感が段違いになっただろう。

■中盤の東京大破壊で最高に盛り上がってからのゴジラ急停止。15日後に目覚めるという推測データが提示されるおかげで、時間との戦いというサスペンスは発生するものの、予測不能な破壊神ゴジラの存在感は大きく減退する。人間側のほうで「東京が核兵器で消滅!?」という大きなドラマが動いてしまうこともあり、ストーリー上、ゴジラの存在が矮小化してしまう。
例えば、ゴジラの活動を停止させつづけるためには人間側が何らかのアクションを取りつづけることが必要で(膨大なエネルギーを費やして冷却するとか過熱し続けるとか)、動き出さんとするゴジラを制止しようと四苦八苦するなど、最後までゴジラの存在感を維持する設定が必要だったのではないか。

■ヤシオリ作戦の映像的な迫力不足も痛い。ゴジラの暴れ方も、中盤の東京大破壊シーンより明らかにスケールダウンするし、人間の思惑通りに2回も転んで目を回すオトボケぶりも相まって、ゴジラの恐怖感が急速に減退する。
中盤に放射熱線を吐いたのと同じスケールでゴジラを暴れさせてしまうと、脚本的にヤシオリ作戦が実行できない(ゴジラに近づけない)というジレンマは分かるが、それならゴジラが矢口のいる指揮所に向かって予想外の進行をはじめるとか、指揮所が背びれビーム(仮称)の流れ弾に被弾して作戦行動にタイムリミットが設けられるとか、別種のサスペンスを平行して走らせることで最後までスリルを維持すべきだったろう。

 ・・・などなど、特に後半戦で気になる部分が多々ある。で、この映画がなんでこんなに色々欠けてしまっているのか原因はものすごくハッキリしていて、それはもう「庵野監督の趣味で会議シーンに時間を使いまくっているから」に尽きる。たしかに『シン・ゴジラ』は会議シーンがメチャクチャおもしろくて、文句なしにこの映画の一番魅力的な部分ではあるのだが、そうは言っても会議の描写に時間を割きすぎた分、物語として重要なほかの要素を描く時間が足りなくなっている。

 会議シーン以外に作り手の嗜好が前に出すぎて作品バランスを壊している要素といえば、要所要所で流れる伊福部楽曲もそうだ。純粋にこの作品の雰囲気に合っていないので、曲がかかっても映像と乖離するばかりで観客のテンションも上がらない。
 このへんのイビツぶりを、クリエイターの信念と取るか、オタクの自己満足と取るか・・・。私個人は後者の印象を強くもってしまった。

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 とはいえ、冒頭にも述べたとおり、欠点を並べ立てるだけなら簡単にできる。この映画は、そういう大小の欠点をはらみつつ、作品全体として異様なエネルギーとテンション、奇形の楽しさに満ちている。開始1分からフルスロットルで走り始める物語のスピード感。主人公・矢口をはじめ、全員が超いいキャラのチームメンバー。そして何より、「ゴジラとのファースト・コンタクト」という素晴らしい体験を与えてくれたこの映画を、私はどうしても嫌いになることができない。いやー、本当に楽しい2時間だった。


 あ、最後にこの映画の興行収入予想について。
 私は前回のブログ記事で、「『シン・ゴジラ』はプロモーションの仕方さえ間違えなければ興収50億円は行くのでは?」と書いた。樋口監督で、スターを揃えて、VFX大作映画で、夏公開で、40~50代の客層も狙えるという点から、リメイク版『日本沈没』の53億をベンチマークとして予想した(庵野監督はエヴェの実績はあるが実写映画の成績は今ひとつなので要素としてプラマイゼロ)。『るろうに剣心 京都大火編』が52億稼いでるのでそのぐらいは行くだろう、という思いもあった。その上で、『シン・ゴジラ』はオタク向けよりも一般向けのプロモーションをすべきだ、と勝手な提言をした。
 が、実際に観てみたら、この映画はカップルや一般層にいきなりゴリ押ししてもしょうがない。作品自体も予想以上にエヴァだ。ゴジラはめっちゃ使徒で、映画としては要するにヤシマ作戦だ。なので東宝としては、まずはコンテンツに強い興味をもつコアファン層に火を付けてブームになってる感を創出し、俳優を安心材料に周辺の一般層を引き込む、というエヴァ「序」的な客層拡大の流れを狙ったプロモーション戦略だった・・・・のかな。かなり綱渡りな手法に見えるが、大丈夫だろうか。ゴジラ観た人は、一人一殺の覚悟で友達をがんがん劇場に引きずり込もうぜ。

(★8/30追記 : 大丈夫でした。53億をあっさり超えて順調に実績積み上げ中。庵野総監督と東宝の皆さまにスーパージャンピングトルネード土下座)


 あ、もう1つ蛇足!
 放射熱線を吐く時にゴジラの眼を瞬膜が覆って鬼神みたいな顔になるってアイディア、私も15年ぐらい前に思い付いてたんですよ!まじで!!!!

 ああ、語ることが尽きない。なにせ12年ぶりの国産ゴジラ映画だ。これから賛否含めてたくさん出てくるであろう他の人達の感想を読むのも楽しみだ。今月は、ゴジラのことだけ考えて生きていこう。






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私は幼稚園のころ生まれて初めて映画館に行き、『ゴジラVSビオランテ』を観た。正直その時のことはほとんど覚えていないし、内容もほとんど理解できなかったと思うが、その時からゴジラにハマり、今に至るまで怪獣特撮ファンとして生きてきた。

90年代中盤まで、ゴジラのコンテンツパワーは凄まじいものだった。毎年1本ゴジラが劇場公開され、配給収入2~30億を稼ぎ、ジブリと競うようにその年の邦画ランキング1、2位を獲っていた。特撮が大衆娯楽のトップになりえたのだ。しかしゴジラのコンテンツパワーは、『VSデストロイア』( 95年 ) の観客動員400万人をピークに急激に凋落していく。ピークから9年後の『FINAL WARS』( 04年 ) では観客動員は100万人にまで落ち込み、ゴジラは眠りについた。

なぜ、ゴジラというコンテンツは急速に観客に受け入れられなくなってしまったのだろうか。
私はエンタメ業界でプロモーションの仕事をしている。特撮ファンである上に、日々ひたすらユーザー行動の分析をしているので、ゴジラというコンテンツからユーザーが離れていった原因はずっと気になっていた。『シン・ゴジラ』公開も近づき、ちょうどいいタイミングでもあったので、この疑問に向き合ってみることにした。
本稿では、「なぜゴジラは受け入れられなくなったのか」の理由を探っていく。そしてそれを踏まえ、『シン・ゴジラ』ヒットのためには何が必要なのか、無責任な提言も行いたい。

とはいえ、詳細に裏を取りながら検証していくととんでもないスケールの作業になってしまうので、本稿では参考データを横目で見つつ、ほどほどの厳密性で考察していく。・・・ということで、話半分で読んでください。反証があれば、むしろガンガンいただきたい。自分の認識を正すためにも。

なお、ゴジラという単語は「日本版ゴジラ」という意味で使用する。98年、14年のハリウッド版『GODZILLA』は日本版ゴジラとはまったく別のブランドイメージの作品であるため、日本版ゴジラとは区別する。


【 おさらい : ゴジラの興亡 】==========
さて、それではまず84年以降に注目して、ゴジラの興亡を振り返ってみよう。
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75年の『メカゴジラの逆襲』から9年を経て、84年度版『ゴジラ』発表の時点で、ゴジラというコンテンツはすでに一度陳腐化していた。大森一樹氏が、当時の状況を端的に表すエピソードとして、84年度版『ゴジラ』の予告編を見るなり「なに・・・?今さらゴジラ・・・?」と失笑したカップルの話をしていたものだ。

が、大人の客層にも耐えうる内容を狙って作られた84年度版『ゴジラ』と『VSビオランテ』でイメージの一新に成功。ファミリー層向けに路線変更した『VSキングギドラ』から、ゴジラは1級エンタメコンテンツとしての地位を再獲得した。

ところが、上記のグラフでは人気絶頂のタイミングに見える『VSデストロイア』を最後に、VSシリーズは休止期間に入る。これは、東宝が自社でゴジラを製作するのを止め、ハリウッド版『GODZILLA』に引き継ぐ予定だったからだ。『GODZILLA』はシリーズ化を前提とした企画であり、東宝はその著作権使用料と国内配給で稼ぐ計画だった。実はこの時期、東宝は配給・興行で稼ぐ経営方針にシフトしようとしており、ほとんど自社で映画を作っていない。東宝が映画の自社製作をやめた理由を感覚的に理解するには、以下のグラフで90年代中盤の状況を見るのが一番手っ取り早い。
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( 東宝株式会社ホームページ「映画興行事業の再編」 (Click!) 
( 一般社団法人日本映像ソフト協会ホームページ「各種調査報告」 (Click!) 

65年以降、全国の映画館数と劇場来場者数は減りつづけ、95年に底を打った。また、ビデオ/DVD市場でも邦画ジャンルの売上は横ばいで、大幅な改善は期待できない状態。日本の映画産業は、死亡寸前だった。東宝は、金がかかってリスクの高い映画製作メインの商売から、配給・興行のみを行う会社へ軸足を移そうとしたのだ。94年に「ゴジラに次ぐコンテンツの柱にする」と宣言し、東宝が総力を挙げてメディアミックス展開した大作『ヤマトタケル』が失敗したトラウマも、配給中心のビジネスへ方針転換を進めた理由だろう。
( 日本映画産業の絶望的な状況は、シネコンの普及やコンテンツビジネスの市場拡大により改善していくが、それはまた別の話 )

結局、『GODZILLA』が想定以下の利益しか生まなかったのと、国内の映画産業に復活の兆しが見えはじめたため、東宝は『ミレニアム』でゴジラ製作を再開することになった。しかし4年のブランクを経て公開された『ミレニアム』以降、ゴジラは急速に失速していく。


【 考察 】==========
さて、前提条件のおさらいはこのぐらいにして、考察を始めよう。

なお、考察にあたり、「特撮はCGに負けた」的なステレオタイプな見方ではゴジラ凋落の説明はつかないと思っていたのだが、ゴジラファン層の成長ステージや、『VSデストロイア』以降の特撮映画の供給傾向を鑑みると、やはり96年ごろから始まるハリウッドのVFXディザスター映画ブームはゴジラの失速に大きく寄与した、という結論になった。順を追って説明していきたい。

ゴジラ映画観客動員数のグラフを振り返ると、大きく2つの失速ポイントがあるのが分かる。
『VSデストロイア』と『ミレニアム』の間にある観客の大幅減(第1の失速)と、
『大怪獣総攻撃』と『×メカゴジラ』以降起こる観客の大幅減(第2の失速)である。
まずは第1の失速の理由から考えていこう。ゴジラ映画が公開されない4年の間に、何が起きていたのか?ゴジラ映画の客層をいくつかのデモグラフィックに分け、個別に推察していく。ここでは、ゴジラ映画の客層を以下①~③のタイプに大別する。

< ①ファミリー層 >
家族でゴジラ映画を観に来る層で、動員数への寄与は一番多い。親と、小学生までの子供(大多数は男子)で構成される。この小学生男子は、成長とともにゴジラを“卒業”していくものと、ゴジラへの愛着度を高めて②の若年ゴジラファンに進むものに分かれる。

< ②中学生以上の若年ゴジラファン >
1人または友人とゴジラ映画を観に来る若年ファン。VSシリーズで初めてゴジラに触れた層。家族でゴジラを観に行ってファンになり、親離れ以降は自発的に映画館に通う。成長とともに緩やかにゴジラを“卒業”していく。一部はそのまま残って③の古参ファンに変化する。

< ③古参ゴジラファン >
『メカゴジラの逆襲』以前からゴジラを追っているような人。時代や作品に変化があってもゴジラを追いかけ、規模は小さいものの必ず一定の動員数に寄与するコアユーザー。

もちろんこれ以外にも様々なデモグラフィックの観客がいるはずだが、動員数に占める割合としては、この3集団を抑えておけば8割方カバーできると考える。


< 「第1の失速」でファミリー層に何が起こったか >
95年以降、4年に渡ってゴジラ映画が作られなかったことで、単純に新規ファンの流入が減ることになった。この時期は、特撮映画として『ガメラ』2、3と『モスラ』3部作、『ウルトラマンゼアス』があったため、ゴジラに繋がる入り口が完全に絶たれたわけではないものの、横綱たるゴジラと比べて動員規模は小さい( 『ガメラ2』『ガメラ3』の動員はVSシリーズの1 / 3であり、また内容的にもファミリーで見るにはやや難易度が高い。『モスラ』の動員はゴジラVSシリーズの6割程度 )。
ファミリー層は、ゴジラというコンテンツに対するこだわりが一番弱く、流動的に接する。常に一定数が新規流入し、一定数が成長とともに“卒業”するサイクルであるため、新規流入が減った以上、ファミリー層の母数は4年で純減したと考えられる。
それに加え、後述の「特撮イメージの低下」がこの後さらに影響を及ぼしていくことになる。


< 若年ゴジラファン層に何が起こったか >
『VSデストロイア』以降の4年間、中学生以上のゴジラファンにとって、彼らが望むような怪獣特撮映画の受け皿は『ガメラ2』『ガメラ3』の2本を除き、存在しなかった。
『モスラ』『ウルトラマン』は明確にゴジラシリーズよりも低年齢の小学生層を狙った作品であり、中学生以上に成長した彼らのニーズとは乖離していた。また、消費者として他の年齢層より自尊心が強く周囲の目を気にする中学生・高校生がこれら“小学生向け”映画を観に行くには、ユーザー心理として厳しいものがあった ( 「え?平成モスラシリーズもウルトラマンも、中学で観に行くの余裕じゃね?」と思ったあなた。こんなマニア向け記事をここまで読み進めている時点で、ご自身の感覚が一般人とだいぶズレているとご認識くだされ )。

それでは、VSシリーズとともに育った若年ゴジラファンは何を観ていたのか?
ゴジラの不在と時を同じくして、ハリウッド映画に「VFX都市破壊ムービー」とでもいうべき新ジャンルが生まれた。その最初期の作品が、96年の『ツイスター』と『インデペンデンス・デイ』である。

80年代以降、巨大建築1つや街区1つがふっ飛ぶようなスケールのアクション映画は数多くあったが、現実の大都市1つが丸々ぶっ壊れていく様を描写したハリウッド映画というのは意外にもほとんど無かった。( 84年~95年の間では『ゴーストバスターズ』ぐらいしかないのでは )
現代のリアルな大都市が破壊されていく描写は、90年代中盤まで、日本の怪獣映画しか提供するものがなく、ハリウッド映画と直接比較ができない、唯一無二の映画体験だったのだ。ところが、日本が独占していた都市破壊映像に、ついに直接的な比較対象が出てきてしまった。

96年『インデペンデンス・デイ』『ツイスター』
97年『ボルケーノ』『ダンテズ・ピーク』
98年『ディープ・インパクト』『アルマゲドン』『GODZILLA』

これらの作品が描いた圧倒的な破壊ビジュアルは、「都市破壊」という映像に対する観客の評価基準を急激に、そして大幅に書き換えた。

これは、「ハリウッドは最新のCGを使えたから日本の特撮よりもすごかった」という話ではない。
たとえば『インデペンデンス・デイ』は、当時最高峰のミニチュア特撮映画でもあった。巨大UFOがホワイトハウスを破壊するシーンのミニチュアでは、ハリウッドのスタッフ達が「画面にハッキリ写らなくとも、極限までリアリティを追求すべきだ」という信念のもと、ホワイトハウスの外観はもちろん、屋内の家具まで手作業で作りこんでいた。
この場面のメイキングを見た樋口真嗣氏は、「細かい手作業が日本の強みだと思っていたのに、向こうは潤沢な予算と製作期間の上に日本と同じレベルのこだわりまで持ち合わせていた」と衝撃を受けたと語っている。この樋口氏の言葉が、日本がこの分野で絶望的な差をつけられてしまった理由を端的に言い表しているだろう。

そんなわけで、中学生以上の若年ファン層は、ゴジラ不在の間にこれらのハリウッドVFX映画の洗礼を受けて育っていくことになる。この間に、彼らはハリウッド規模の予算で造られた都市破壊ビジュアルをベンチマークとして持つことになり、彼らの中で日本の特撮映画の価値は相対的に低下していった。


さらに、ここで生じた日本とアメリカのビジュアル面のクオリティ差は、理解の浅い世間一般層からは「日本の古臭いミニチュア特撮」「ハリウッドのカッコいいCG」という歪められた対立構造で理解されてしまった。上述の『インデペンデンス・デイ』の例が示すとおり、実際はそんな単純な図式ではないのだが、世間の大多数の人間がそう理解してしまったとき、それは「事実」として流通し始める。当時をリアルタイムで体験していた人は思い出してほしい。「日本の怪獣映画ってさ、着ぐるみとかミニチュアなのが一発で分かるじゃん?ハリウッドのは全部CGだから超リアルなんだよ」的なことを話す奴が大量にいたことを。
93年の『ジュラシック・パーク』以降高まりつつあった「日本の特撮=古くてダサいコンテンツ」という世間のイメージが、この時期から急速に一般化されていく。これにより、ファミリー層や若年ファン層の間にも次第に「ゴジラはダサい」という認識が広がっていき、彼らが『ミレニアム』以降に再びゴジラに戻ってくるのにブレーキをかけた。こうしてファミリー層と若年ファン層の相当数が、『VSデストロイア』を最後にゴジラを離脱することとなった。


< 古参ゴジラファンに何が起こったか >
一方、古参ファンにはほとんど何も起きていない。彼らは何があろうとゴジラを追い続ける、もっともゴジラへの愛着が強い人々だからだ。何年待とうと、隣のスクリーンでハリウッド超大作を上映していようと、それはそれとしてゴジラは観る。ので、この人たちは増えも減りもしていない。


ということで、いったんまとめてみよう。
■4年間のゴジラ映画不在の間に、新規ファンの流入が減少した。さらに、VSシリーズでファン化した若年層が、この時期勃興したハリウッド発のディザスター映画に流れていった。また、世間一般には「日本の古臭い特撮」「ハリウッドのカッコいいCG」という極度に単純化した理解が広まり、ゴジラブランドの求心力が大きく低下した。
・・・これが第1の失速の主な理由であると考える。第1の失速が特に急激なものに見えるのは、数年をかけてゆるやかに形成されていった「特撮=古い・ダサい」という世間の概念が、4年のブランクを経て突然可視化されたからであろう。


さて、続いて第2の失速について考えてみよう。
第1の失速によりファンの絶対数が減ったゴジラの観客動員数は、『ミレニアム』『×メガギラス G消滅作戦』で大きく落ち込む。コンテンツとして死の瀬戸際に立たされたゴジラは、しかし01年の『大怪獣総攻撃』でいったん観客動員240万人に回復する。
『大怪獣総攻撃』で何が起こったか。ご記憶の方も多いだろう、『とっとこハム太郎』との同時上映である。当時人気絶頂だったハム太郎バブルに乗っかり、ゴジラの人気は一時的に回復したかに見えたが、続く『×メカゴジラ』以降、動員数を再び急激に落とし、『FINAL WARS』をもって終了となった。ここで起きた出来事を、まずはファミリー層から考察していく。


< ファミリー層に何が起こったか >
『大怪獣総攻撃』の復調は1作限りのもので、「×メカゴジラ」以降すぐに失速した。新規ファンが根付かなかったのだ。それはなぜか。
なんといっても、作品の食い合わせが悪かった。子供たちは、ハム太郎とセットで、平成ゴジラでもダントツに怖い『大怪獣総攻撃』を観せられたのである ( 当時私が観た回でも、ハム太郎目当てで来たであろう親子連れが、『大怪獣総攻撃』の途中で退出していった )。小さな子供達があれを観て「ゴジラ大好き!」になると、東宝は本気で思ったのだろうか?
映画館を訪れたファミリー層は、ゴジラ映画をむしろ「地雷」と認識し、今後は避けるべき作品として認識したであろう。そもそも、「大人は楽しいが子供は怖いコンテンツ」と「子供は楽しいが大人は退屈なコンテンツ」を1つにパッケージングするという方式自体に致命的な問題があったとしか思えない。

さらに、『ミレニアム』以降の弱点として、6作のうち世界観を共有しているのは機龍2作のみで、各作品の設定がバラバラだという問題もある。毎回話がリセットされるため、ゴジラ以外に作品ごとの継続性・統一性がなく、追いかけるべきお馴染みのキャラクターもいない。これでは本当にゴジラ目当てのコア層以外は継続視聴のモチベーションがもたない。こうしてファミリー層は、ゴジラから離脱していった。


< 若年ゴジラファン層に何が起こったか >
VSシリーズで育った新世代ゴジラファン層の中でも一番若い層を『VSデストロイア』時点で小学1年と仮定しよう。彼らは4年のブランクを経ても『ミレニアム』と『メガギラス』は観に行ったかもしれないが、『大怪獣総攻撃』時点では中学1年である。中学1年はハム太郎と同時上映の映画なんか見に行かない。また、『VSスペースゴジラ』以前にファンになっていた少年たちは『大怪獣総攻撃』時点で中学2年~高校生。彼らに関しても言わずもがなだ ( 先ほども書いたように、中学生・高校生は他の年齢層よりも周囲の目を気にする消費者である )。
ここで、VSシリーズで育ったファン層とミレニアムシリーズの間に決定的な断絶が生じてしまった。彼らの大半は、精神的な障壁のためハム太郎以後のゴジラを観に行かなかったのだ。

そして、ハム太郎同時上映というハードルは、これまでゴジラ映画を必ず劇場で観ていた中高年の古参ファンすら引き離した可能性がある。ここはちょっとアンケートでも取ってみたいところだ。


ということで、第2の失速についてもまとめよう。
■当時人気絶頂だったハム太郎との同時上映でファミリー層を狙ったが、その方策によりVSシリーズで育ててきた中学生以上の既存ファン層が一斉離脱。さらに同時上映第1作目となった『大怪獣総攻撃』の方向性と、作品ごとの連続性も無いことからファミリー層の継続獲得にも失敗。ハム太郎が数年で失速したころには、ゴジラ単体に付くファンが激減していた。
・・・これが第2の失速の理由であると考える。


あらためて全体をまとめると、
96年以降、ゴジラのメディア上の不在に重なって、ハリウッドのディザスター映画が猛威をふるったことで、ゴジラはコンテンツとしての求心力を急速に弱めた ( 第1の失速 : 『ミレニアム』『メガギラス』が失速した理由 )。
さらにファン層の行動を読み違えてコンテンツ戦略が迷走したことで、既存ファンが急速に離れ、新規ファンも定着しなかった ( 第2の失速 : 『大怪獣総攻撃』以降、急速に失速した理由 )。
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ゴジラ凋落の原因について、全く新しい切り口を提示したというより、以前からファンの間で感覚レベルで語られていた共有認識を改めて補強した感じだが、以上が考察である。


【 どうなる、『シン・ゴジラ』 】=======
さて、ここまで紐解いた「なぜゴジラは受け入れられなくなったのか」を踏まえて、『シン・ゴジラ』ヒットの確度を考えてみたい。
もちろん、商業的なヒットの度合いと、作品としての完成度はまったく別物だということは理解している。しかし、エンタメ映画は純然たるビジネスでもあるので、ヒットしなければ続編も作られない。どうせならヒットしてもらいたい。そして毎年ゴジラ映画を観たいのだ。

まずは、『シン・ゴジラ』がどんなターゲット戦略で作られた作品なのかを考える。
商業エンタメ映画において、ターゲットとなる客層をきちんと決めて作品を組み立てるのは重要なことだ。以前このブログでも取り上げたとおり、『ジュラシック・ワールド』や『スター・ウォーズ フォースの覚醒』は、そもそもターゲットユーザーありきで作品の構成要素やストーリーを組み立てたお手本のような映画だ。劇場版『クレヨンしんちゃん』や『VSモスラ』なども同様だ。

「ゴジラ復活」という企画を考えたときに、ターゲット戦略はおそらく以下の2案に絞られる。

A案 : VSシリーズ初期にゴジラを体験した30代既婚男性&そのファミリーと、VSシリーズ後期・ミレニアムシリーズでゴジラを体験した20~30代独身男性をターゲットとする。そのために、彼らが子供のころ慣れ親しんだ、「怪獣対決路線」を踏襲する。ただし、既存シリーズの踏襲であるため、「古臭い・時代遅れ・子供向けのゴジラ」というマイナスイメージを払拭できないリスクがある。

B案 : ゴジラ経験層との繋がりは重要視せず、全く新しいターゲットユーザーを設定する。VSシリーズ・ミレニアムシリーズのイメージから敢えてかけ離れたゴジラ像を提示することで、過去作のイメージをリセットする。ただし、新規ファンを1から開拓しなくてはならないリスクがある。

『シン・ゴジラ』は後者の戦略を選んだ。
前段で見てきたように、ゴジラ経験層に対するゴジラの求心力はいまや非常に低く、またゴジラ自体に「古臭い」というマイナスイメージが付きまとうため、B案のほうが勝算は高い。また、今後怪獣対決路線に進むハリウッド版『GODZILLA』シリーズとの差別化も図れるので、的確な判断だと思う。( 『メカゴジラの逆襲』までにグチャグチャになったコンテンツイメージを84年度版『ゴジラ』で再構築したのと同じ状況になっていることにも注目 )

東宝は、『シン・ゴジラ』のターゲット客層として「オールターゲット。大人も子供も楽しめるエンタテイメントの塊を目指しています」と回答しているが、これは「マニア向けだと思わずにみんな観に来てね」的な宣言であり、実際には明確なターゲット設定がされているはずだ。
じゃあ具体的に、『シン・ゴジラ』は誰をターゲットにし、どんな作品としてヒットを狙っているのか?その部分を紐解くため「今、日本で映画がヒットする」というのはどういうことなのか、前提を確認しよう。直近3年間のヒット映画を並べてみる。

2013年 日本興行収入ランキング=======
 1  風立ちぬ
 2  モンスターズ・ユニバーシティ
 3  ONE PIECE FILM Z
 4  レ・ミゼラブル
 5  テッド
 6  ドラえもん のび太のひみつ道具博物館
 7  名探偵コナン 絶海の探偵
 8  真夏の方程式
 9  謎解きはディナーのあとで
 10  そして父になる

2014年 日本興行収入ランキング=======
 1  アナと雪の女王
 2  永遠の0
 3  STAND BY ME ドラえもん
 4  マレフィセント
 5  るろうに剣心 京都大火編
 6  テルマエ・ロマエII
 7  るろうに剣心 伝説の最期編
 8  ドラえもん 新・のび太の大魔境 〜ペコと5人の探検隊〜
 9  思い出のマーニー
 10  ゼロ・グラビティ

2015年 日本興行収入ランキング=======
 1  ジュラシック・ワールド
 2  ベイマックス
 3  映画 妖怪ウォッチ 誕生の秘密だニャン!
 4  バケモノの子
 5  シンデレラ
 6  ミニオンズ
 7  ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション
 8  HERO
 9  名探偵コナン 業火の向日葵
 10  インサイド・ヘッド

これを見て分かるとおり、今、日本で大ヒットする映画はほぼ2種類。「ファミリー映画」か「デート映画」だ。このランキングを改めて眺め、映画ファンとして衝撃を受けるが、映画館とはそもそも家族連れかカップルのためのものなのである。映画館に1人で足しげく通う我々のような客はニッチな存在なのだ。

「ファミリー映画」「デート映画」に加え、別の切り口でカテゴライズするなら、
「超有名俳優が出ている」「映像がスゴい」「人気アニメ」「女性に受ける」
である (「女性に受ける」が重要なのは、女性は複数人で劇場に行くことが多く、クチコミ波及度も高いので一部に火をつければ周辺層への波及が見込めるから)。

非常に乱暴にまとめると、「上記6つのカテゴライズ要素に○が多く付く映画ほどヒットの確度が高い」ということになる ( 『ハリー・ポッター』や『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズを思い浮かべてみよう )。その上で、現在断片的に流れてくる情報を見る分には、『シン・ゴジラ』にはヒットに繋げられる要素が十分ありそうだ。

一番の武器は、有名俳優が大量に出演しているところだ。長谷川博己・竹之内豊らの起用は、「デート映画」または「女性に受ける映画」を実現する最善手であると言える ( ※一般論です。もちろんゴジラ目当てで観に行く女性だっています )。

また、「スゴい映像」に関しても、ハリウッド映画ばりの超スケール都市破壊は無理だとしても、ゴジラの場合は日本の観客が見慣れた景色を破壊することができるため、映像がもたらすインパクトにブーストがかけられる。これは非常においしいアドバンテージだ。
「特撮」という概念自体が、一周回って「日本ならではの技術」「特撮とCGの融合」的な前向きな文脈でも語られるようになった今だからこそ、映像表現への不安が観客を強く遠ざけるということもなさそうだ。
2000年頃と比べれば、デジタル表現のコモディティ化により、国内映画の製作環境でも、アイディアと見せ方次第で安っぽく見えない画作りが格段にしやすくなっている点も追い風になるだろう。

なので、「恐怖」を真正面から描く以上ファミリー層の獲得は厳しいかもしれないが、見せ方次第で「デート層も狙えて、スゴい映像のアピールも可能な作品」という、ヒット映画の方程式に載せることは十分できるはずなのだ。


さて、その上で私が懸念しているのは、プロモーションの方針だ。
個人的には、『シン・ゴジラ』は大コケするということはなく、そこそこちゃんとヒットすると思っている(売り方さえ間違えなければ50億円は行くのでは)。だが、もっと上を狙えるポテンシャルがあるところを、プロモーションの仕方で損をしている気がしてならない。現在展開中の『シン・ゴジラ』のコピーを見てほしい。
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「我々は、何を作ろうとしているのか」
「現実 ( ニッポ ン) 対 虚構 ( ゴジラ ) 」

完全にオタク向けだ。
「製作陣が何に挑んで何を実現しようとしているのか」「震災や原発事故という、フィクションを超えるほど衝撃的な危機が襲った現実をさらに超えるような、圧倒的な虚構の世界を構築する」などというメッセージは、すでにゴジラというコンテンツを理解しきった者にだけ響くメッセージである。果たしてこんな内輪受けのメッセージを見て、ライト層 / 新規層が『シン・ゴジラ』を観に行きたくなるだろうか?

予告動画についても懸念がある。
繰り返しになるが、今のゴジラに大衆を動かすコンテンツパワーはほとんどない。せっかく起用した豪華な俳優陣を、ゴジラの添え物ではなく主役としてきちんと立たせないと、オタク以外の観客を動員することはできない。予告動画にはたしかに人気俳優はたくさん映っているが、ほぼ全員が棒立ちの会話シーンばかり。俳優目当ての観客があの映像を観て、好きな俳優がカッコよく活躍している展開を想起できるだろうか?もちろん、あの映像はティザーなので、これから本予告が出てくるのだと思うが、そこでも同じような編集方針で映像が作られていた場合、多くのお客を取り逃がすことになってしまう。

最後に、全体の露出方針について。
プロモーションの役割は、ざっくり言うなら「認知拡大」と「理解深化」である。現在『シン・ゴジラ』が行っている膨大なコラボは、すべて認知拡大のための施策であり、じゃあ実際に『シン・ゴジラ』はどんな作品なのか、という理解深化の部分はほとんどケアされていない。これが非常に危うい ( パルコでゴジラのポスターを見た女性が、それだけで『シン・ゴジラ』を観に行くようなことは決してない )。

現在はティザー期間なので認知拡大に全力投球し、公開直前から理解深化のための施策を展開していく予定ならよいのだが、東宝側がゴジラのコンテンツパワーを過信し、「ゴジラ新作をやるよ!と名乗りさえすればお客は観に来るはず」と考えているのではないか、という不安がある。いくら露出しても、今のゴジラにそれだけの力はない。『シン・ゴジラ』という作品を理解して、「自分ゴト化」できなければ大多数のお客は映画館にまで行かないのだ。


【 まとめ 】==========
最後の最後で、外野が無責任に不安を煽るような物言いになってしまった。が、ゴジラを愛する気持ちと『シン・ゴジラ』の大ヒットを願う気持ちはホンモノなので、そこは信じていただきたい。マジで。

今回、自分の好きなキャラクターを単なる「コンテンツ」として扱い、その作品群を数字データで評価するのは、私自身も違和感を感じる作業ではあった。しかし、ドライな視点からゴジラを見つめなおしたことで、改めて見えてきたものも多かった。さんざんマーケティング的な観点からゴジラを分析し、この文章を読み返した上で私が今思うことはただ1つ、「マーケティングの理屈なんてクソくらえ」ということだ。だいたい、放射能を浴びたデカいトカゲが、世界中でこんなにも愛されている理由を説明できるマーケティング理論なんてあるか?キャラクターの本当の魅力というのは、数字ではけっして読み解けない部分にこそあると、私は思っている。

理屈はこねまわしてスッキリしたので、期待半分、不安半分、あとは観るだけだ。
『シン・ゴジラ』、楽しみにしています。